三つ折れ人形

カテゴリー「不思議体験」

私の実家に着物の袖が少し焦げ右の髪が少し短い、一体の日本人形があった。
桐塑で出来た顔には、ちゃんとガラスの目がはめ込まれていて、その上に丁寧に胡粉の塗られた、唇のぽってりとした、たいへん愛らしい顔の人形だった。

牡丹の花柄をあしらった黒い着物がよく似合っていて、帯にも本物の金糸が入っていた。
しかし何より変わっているのは、その人形、膝と大腿部が曲がるように出来ていて、正座をさせることができる。
これが三つ折れ人形というもので、今でもなかなか珍しく、また高価な人形だった。

いつの頃からあったのか、母の実家に祖母が嫁いだ時にはすでにあったという。
母の実家は江戸の頃から続く大きな薬種問屋を営んでいて、一時はたいそうなものだったらしい。
なにしろ遊ぶ玩具がないから、金の鈴を手鞠代わりにして遊んだと云われていたぐらいだから・・・おそらく、そんな背景のなかで家に来たのかもしれない。
もちろん、母の時代にはすっかり零落してしまっていたが・・・。

ともかくも、母はその人形をとても大切にしていたそうである。
また毎年桃の節句には、雛人形と一緒に雛壇の端にその人形は飾られた。
けれどもその年は、時節柄、また母が不在だったこともあり、家ではいつもの雛壇を飾ろうとは思わなかったそうだ。

確かにそうだが、女にとっては大事な節句。
祖母は母が帰ってきたら寂しがるだろうと思い、簡単ではあるが、雛人形一式の入った長い箱に赤い毛氈を敷き、内裏雛の男雛と女雛だけを飾り、その端にあの人形を座らせる事にしたそうである。

ちょうど近所の娘さんが遊びに来ていた。当時16、7歳だったのではないだろうか。
深川小町と噂される程の、たいへん綺麗な人だったそうである。
その人と二人で、つつましい雛壇を飾ったそうである。

ところが、いざあの人形を飾る段になって、うまく座らない。
胴体にも厚く胡粉が塗られてあってバランスは良く、普段はすぐに座るはずが、その時はコロリと倒れてしまった。
ふたたび試みても同じであった。

数度繰り返して、見かねた祖母が「代わろうか」と言おうとした時に、漸く座った。
やれやれと思って、雪洞に灯りをつけた時、またひとりでにコロリと倒れ畳に落ちた。
その拍子に雪洞も人形の上に倒れて、着物の袖と髪を少し焦がしてしまったそうだ。
髪の毛が焦げるイヤな臭いが辺りに立ち込めたというから、おそらく頭髪も人毛だったのだろう。
娘さん、たいへん恐縮して帰っていったそうである。

そのあと祖母が再び座らせると、一度でぴたりと座った。
そして人形は、主人の帰るまで黙って座って待っていた。

そして、昭和20年3月10日がきた。
運の悪い事に、母はそれまで静岡の方に学童疎開をしていたが、当時六年生であり、卒業進学の為に、その一部の生徒は数日前から東京に戻ってきていた。

その日、日付が9日から10日に変わって間もなく、空襲警報が鳴らされた。
母とまだ乳飲み子だった弟を背負った祖母は(その頃祖父はすでに他界していた)、手荷物だけを持ち、かねてから決められていた近くの防空壕に、急いで飛び込んだそうである。
街中の防空壕であるから、斜面に穴を穿つものではなく、竪穴式の、なかを四畳程に掘り広げ木材等で補強しただけの、はなはだ頼りないものであったらしいが、この場合は、ないよりははるかにましである。

入り口には、木枠にトタンが張り付けられた蓋がついていた。
そこに班の者が膝を寄せ合って、爆撃機の去るのを待つのである。

班長が中にいる者の点呼をとる。
ところが、例の娘さんの一家だけがまだ来ていなかったそうである。
入り口に一番近い場所に座っていた母は、蓋をそっと細く開けて外を覗いてみた。
向こうから娘さんが、その後ろからその母親が、こちらに向かって走ってくるのが見えたそうだ。

「ハヤクハヤク」

母は小さく叫んだそうだ。

あと数メートルという所で、彼女のすぐ後ろに焼夷弾が落ちた。
後ろを走っていた母親には直撃、即死だったろう。
そして娘の方は。

実際、そんな時の悲鳴というのは物凄いものだそうだ。
叫びというよりは咆哮、聞きようによっては、それこそ警報のサイレンにも聞こえる。
そして、人間は青い炎を噴き上げながら燃える、ということも知ったそうだ。

焼夷弾の硫黄の臭いと、髪の毛を焼く臭いが鼻を突く。
彼女はしばらくの間、立ちながら焼かれていたそうだが、やがて彼女の悲鳴は次第に細く高くなり、ついに崩れ折れ、それでもまだ青い炎を上げていたそうだ。
その間、母は瞬きすることも出来ず見ていたらしい。

地獄の炎。
そんな言葉が頭に浮かぶ。

深川への爆撃は20分程も続いたらしいが、おそろしく長い時間に感じられたそうである。
しかも、爆撃機はまだ上空を通過しており、今度は浅草の方の空が真っ赤である。
辺りは火の海でこのまま壕にいたら蒸し焼きになってしまう。

母達は壕を出て、火の来ない所に移動する事にした。
去り際に、あの娘の遺体を振り返った。
あの綺麗な人が、丸坊主の殆ど炭のようになっていたそうである。
なぜか赤子のように手足を屈め、なんだか正座しながら拳闘でもしているような形で死んでいたそうである。

母が家に戻ったのは、もう夜が明けてからだった。
周りにはまだ火を噴いている所もあり、母達は、家はもうとっくに焼けて無くなったものと思っていた。
けれどそうではなかった。

家は屋根を少し焦がしただけでそこにあった。
辺りの多くの家はまだ燻っているのに。

玄関に男が一人座っていた。
祖母の兄、私にとっては大叔父にあたる人だった。
その人は深川が爆撃を受けた事を知ると、妹の身を案じ、品川から深川まで飛んできてくれたのだ。

そしてあの火の中を、ありったけの水をかき集めて、降り注ぐ火の粉を夜通し払ってくれていた。
実際エラい人でした。
私もあの人の前では、生涯膝を崩すことはできなかった。
そして焼け残った家の中で、あの人形はちゃんと座っていたそうだ。

それ以来、人形は座ることはなかった。
人形ケースの中で背中を棒で支えられ、もう何十年も立っている。

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