父の友人:「あのさ、ただであげるからこのチケット、要らないか」
映画マニアである父の友人は気さくな口調でそう笑い、俺の手にとある名画座のチケットを握らせた。
俺:「え、いいんですか。何の映画?」
父の友人:「ああ、アンドレイ・タルコフスキーってソ連の監督が昔撮った作品。君は若いからちょっと退屈するかもなあ。だけど、それでもまあ話の種にはなる思うよ」
翌日そのチケットを胸ポケットに忍ばせて、俺は早速夕暮れの街に踏み出した。
街外れにその名画座はある。
それまでも何度か訪れた場所だがこの映画館、採算性に牙を剥いているとしか思えぬ様な、趣味的で超マニアック作品しか扱っているのを見た事のない、小ぢんまりとしたシアターだった。
ライブハウスを改装したとされるこのシアターは、一般的な映画館のスクリーン設置位置と比しても遥かに低いそれに加え、リノリウム貼りの上に据えられたシート数はほんの百席弱。
フロアそのものが平坦であるため、通常でも鑑賞の際は観辛い事この上無い。
そんな場内に足を踏み入れると、上映5分前だと言うのに来館者はたったの俺一人。
俺:「まあこんなのも貸し切りみたいで、いいか」
4列目の真ん中辺りに腰を下ろし、あまり期待もせずに俺は開演のベルを待ったものである。
俺:「やばい。貴重な時間を無駄にしたか」
始まってから俺がそう後悔するまでに、さほどの時間は要しなかった。
肝心の題名は失念したもののこの映画、開演以降ろくな台詞も無いままに、河やら雲やら農村やらの情景が延々と流れ続けている、いわゆる『アート系環境映画』的な代物だったのだ。
玄人にはおそらく高評価な作品なのであろうが、バカでも判るスペクタクル超大作を好む俺にとって、この展開は苦痛以外の何物でも無い。
俺:「ひょっとしてこれが最後まで続くのかなあ。涙目のせいか、スクリーンが霞んできたよ」
欠伸を繰り返す俺の瞳の中で、銀盤の風景がじわりと滲んでいる。
いや、しかし・・・その滲み方が何か変?
誰も座っていない最前列中央、ちょうど俺の視線の先が真っ正面に捉える席上だけが、丁度肩から上の人型に歪んでいるのだ。
それ以外のスクリーンは鮮明に見えている。
ほら、『光学迷彩』ってのを想像して欲しいんだけど、あたかもそれを纏った人間が前々々のシートにこちらに背を向け座っている様な不思議な構図。
その半透明のシルエットが動くと同時にその空間範囲だけ、映写されている光景が部分的にぐにゃりと歪む。
その正体が何なのかはひとまず置き、普通であればスクリーンがもう少しはよく見える座席までの移動を試みれば良さそうなものであるが、上映作品も肩透かしな上に猛烈な眠気に襲われた俺には、もうそれすら努力する意欲が既に残ってはいなかった。
程なくして俺は睡魔に負け、深い眠りへ真っ逆さまに落ちていったものである。
「パチ、パチ、パチ・・・」
神社を参拝する際の柏手にも似たその響きで、俺は目を覚ました。
俺:「んん、やっと終わったか。しかしこんな映画でもブラボーするのがいるんだな。俺が寝てる間に他の客でも来館したか」
館内照明が再点灯し始めた薄明かりの中、眠気の残る目を擦りながらフロア内をぐるりと見渡す俺。
しかし劇場の中には入館時までと同様、俺以外の客は見当たらなかった。
「パチ、パチ、パチパチパチ・・・」
若干速度を速めながらも続いているその拍手は、どうやら例の最前列中央の席から確かに聞こえているらしい。
『何だかなあ。さすが目に見えない誰かさんの芸術的感性ってのは、生きた人間の、しかも凡夫たる俺なんかとはどうやら一線を画すみたいだわ・・・』
かび臭いロビーを抜けて、今やとっぷりと日も暮れた街を吹く木枯らしに再び身を晒した俺は、肩を窄めながらも前方の空車タクシーに向かって右手を振ったものだった。
蛇足ではあるが、当然の如くこの名画座は潰れてしまって今は無い。