遠い昔の話ではない。
ふもとの村を離れ、山中の小屋でひっそり暮らす夫婦がいた。
元々は、病気がちの妻のため、薬効ある温泉の近くで暮らす事が目的だったという。
彼らの小屋に数頭の猿が近付くようになった時期や、その理由は分からないが、猿が彼ら夫婦を警戒していないのは確かなようだった。
餌付けをしたわけでもないが、小屋の近くに猿が居ついていた。
病気がちだった妻も元気になり、山仕事に出かけるまでになった。
妻は妊娠し、臨月を迎えた。
梁に縛り付けた荒縄につかまり、立ったままでの出産となったが、これは、当時としてはそれほど珍しい事ではない。
珍しかったのは、出産に猿が立ち会っている事だったろう。
部屋の中に何頭かの猿がおり、じっと出産の様子を見つめていたが、この肝心な時に夫は出かけており、不在だった。
猿の助けなどあるはずもなく、妻は一人で出産に臨んでいた。
やがて赤ん坊の頭が見え、いよいよ生まれるという頃合だった。
一頭の猿が近付き、妻の股間から生まれつつある赤ん坊に手を伸ばし、それを引き出した。
赤ん坊が泣き声をあげ、猿が赤ん坊の周りに集まり、大騒ぎとなった。
妻はその場に倒れこみ、次にすべきことに備えて息を整えていた。
猿が騒ぎ立てる声で、赤ん坊の泣き声が聞こえないほどだったが、赤ん坊は産まれてすぐに元気な泣き声をあげており、ひと安心だった。
赤ん坊を囲む猿の輪が崩れ、四方に散り、なお騒ぎは続いていた。
やがて猿の騒ぎが収まり、赤ん坊の顔を見ようと、妻は身を起こしたが、そこに居るのは猿ばかりだった。
顔と手を血だらけにした猿。
猿は後産の胎盤まで平らげ、引き揚げていった。
話してくれた老婆の語り口が、忘れられない。