友人の話。
勝手知ったる山中を歩いていると、何処からともなく口笛が聞こえてきた。
『珍しいな、こんな時期に入山している者がいるとはね』
自分のことを棚に上げ、そんなことを考えた。
口笛を聞きながら歩くうち、見覚えのある分かれ道に出た。
そこで、はたと困惑して足を止めた。
確かにこの場所を自分は知っている。
だのに、どちらに進めば山を下りられるのか、それがさっぱりわからない。
信じられないことに、熟知している道の繋がりをすっかり忘れてしまっていた。
まぁ何とかなるさ、と適当な方へ進み出す。
しかし、それから出会す道という道がさっぱりわからない。
間違いなく知っている筈の道なのだが、いざ進もうとすると急にわからなくなる。
やがて踏み入れる道どれもに見覚えが無くなってしまった。
『拙い、本格的に迷ったか』
焦っているうち、奇妙なことに気が付いた。
ずっと途切れなく、あの口笛が聞こえ続けていることに。
それどころか、いつの間にか随分とはっきり聞こえるようになっている。
『・・・口笛の主が少しずつ距離を詰めている・・・』
急に怖くなり、足早に走り出した。
口笛はしっかと後をついてくる。
その時、別の音に気が付いた。
水音だ。
近くに川が流れている。
何とかせせらぎに辿り着くと、流れに沿って下ることにした。
苦労はしたが、無事日が暮れる前に山を下りることが出来た。
不思議なことに山を下りると、道筋が楽に思い出せるようになっていた。
かなり離れた場所に出てしまったので、戻るのに苦労はしたが。
口笛はいつの間にか聞こえなくなっていた。
後日、林業の関係者にこう言われた。
「ウソブキマルに狙われたな。あの口笛を聞いてしまうと道を忘れてしまうんだ。力尽きてたら隠されるところだった。お前さん、助かって良かったな」
「ウソブキマルって一体何なのですか?」と問い返すと、「ここに昔からいる鬼の名だよ。嘯きってのは口笛のことだ」と、話をしてくれた人は、煙草を燻らせながらそう教えてくれたという。