知り合いの話。
彼はかつて漢方薬の買い付けの為、中国の奥地に入り込んでいたことがあるという。
その時に何度か不思議なことを見聞きしたらしい。
「そこは山奥の、霧深い沼沢地でした。季節によっては本当にもう毎日、十メートル先も見えないような霧が出るんです。その中を歩いていると、身体中がじっとりと濡れてしまうような、深い霧が。そんな所でも生活している人は、ちゃんと居るんですけどね」
「ある朝、邑の者と一緒に歩いていたんですよ。その時もやっぱり深い霧で。その辺りは深い沼地ばかりで、詳しい人と共に行かないと、直ぐに深みに嵌まって溺れてしまう怖い場所でもあるんです。その内に前方から、ブルルルっと馬の鼻息みたいな音が聞こえてきました。耳に届いた途端、連れがピタッと立ち止まってしまって。私といえば馬でも居るのかな、くらいにしか思い浮かばなかったんですが」
「どうしたんです?と問い掛けたんですが、様子がおかしい。身動き一つせずに、ただこうじっと、高い方を見上げていて・・・。何かあるのかと、私も同じ方を見上げてみたんですけど」
前方、二階建ての建物くらいの高さに、霧が少し掠れたような切れ目があった。
そこに馬の首が浮かんでいたのだという。
「ギョッとしました。最初は作り物かとも思ったんですが、時々鼻が膨らんでて。あの鼻息はそこから聞こえていました。生きてるんです。でも馬にしては、異常に首が長かった。下の方に二メートル位伸びて、その先は霧の中に沈んで見えなかったな。それに鬣も見えませんでしたし。私も連れと同じく固まってしまっちゃって。しばらくすると、馬の首は私たちに興味を無くしたのか、ふいっと目を逸らしました。それから霧の海の中に静かに沈んで行って・・・。首が消えてから間もなく、水音が聞こえたんです。何か大きい物が水中に没したかのような、そんな音でした」
水音が消えると、連れがいきなり動き出した。
とにかく一刻も早く、ここを抜けて邑に帰ろうという。
足早に進みながら、今見た物を次のように説明してくれたそうだ。
『あれはこの辺の沼に昔から住んでる怪物だ。邑じゃ単に“水の馬”って呼んでいる。霧の深い日に沼に寄った不注意者を、咥え込んで水中に引き摺りこむんだ。さっきはうっかり水際に近よりすぎた。危ない所だった』
あの馬、私たちを狙っていたのですか!?
聞いてからゾッとしたという。
「邑に帰ってから聞いてみると、大抵の年長者は知っていましたね。近くで見たことがあるって人がいましたので、紙と鉛筆を渡して姿絵を描いて貰ったんですよ。いや、面白い絵を描いてくれました」
「顔は馬みたいなんですが、長い首からその下の身体、これがとても哺乳類には見えなかったんです。例えるなら、ええと・・・。うん、昔図鑑で見た首長竜って恐竜に似てました。エラスモザウルスってヤツだったかな。そんな感じの、首の長い身体付きで。まぁどう考えても、あれは馬ではありませんでしたし、そういう怪物もいるのかなぁって思いました、ハイ」
そこに滞在している間、出来るだけ水辺には近よらないようにしたという。