咲蘭(さら)は自分の部屋に戻ると、後ろ手に音高く扉を閉じ、そこにもたれるようにして深い溜息をついた。
ついさっき見たものを思い出し咲蘭(さら)の身体が震えた。
あれは何だったのだろうか・・・・・・?
足が自分を支えることができない。
力なく首を垂れ、ずるずるとその場に座りこんでしまった。
年かさの女だった。
灰色のコート着て禍々しいほど昏い笑み浮かべていた・・・・・・。
――それは仕事の帰り道。
T駅の西側にある公園の中を咲蘭(さら)は雨に打たれながら走っていた。
薄暗がりにアスファルトを打つ雨音が響く。
ずっしりと濡れた薄闇、遠くて入り混じるくぐもった雷鳴と、鋭利な雨音。
公園の中は雨に降りこめられた木々のせいで暗い。
光源は小さな外灯だけ。
その小さい明かりを、立ちはだかった女の影が大きく切りとっていた。
雨足が強さを増し木々の間を縫い吹き込んだ雨が叩き、真っ白な飛沫が黒々とした輪郭を霞ませている。
ふいに自分の六感が脳裏から微かに感じ鋭敏に引き延ばされると、奇妙な感覚にぞくと背筋が冷えた。
自然の摂理に反したものが急に人の形をとった、そんなふうに考えてしまったからだ。
女は全身を雨に濡らしている。
蝋のように色をなくし白くやつれた顔の口元が哄笑した。
女は咲蘭(さら)を見据える。
咲蘭(さら)は目を逸らすことができなくて、女を見つめる。
これは人ではない!
・・・咲蘭(さら)は確信した。
女は水滴の滴る両手を突き出し、鍵爪の形に指を曲げ、ゆらゆらと咲蘭(さら)に近づいてくる。
視線をはずせないまま、逃げなければ、と咲蘭(さら)は思う。
思ったとたん、女は白くけっぶた水煙になって消えた・・・・・・。
咲蘭(さら)はどう帰ったのかさえ覚えていない。
我にかえったとき自分の家の玄関に立っていた。
あれがいったい何だったのか分らなかった。
ただ・・・・・・あの女がこの世のものではないのだと、それだけは分る。
まだ呼吸はせわしなかったが、安堵感が咲蘭(さら)の胸を撫ではじめる。
咲蘭(さら)はバスルームで熱いシャワーを浴び、雨で濡れ冷えきった身体を流す。
日常を取戻した咲蘭(さら)は笑って顔を振った。
非現実的な出来事は実感を失い、あれは自分の見間違いだと思い始めていた。
咲蘭:「なにを考えているの、そんなことあるはずはないのよ」
咲蘭(さら)は髪を洗いながら呟き、濡れた髪を掻あげ水気を切ると深く深呼吸をして、そして目を解く・・・・・・。
白い湯気に満ち霞んだバスルームの中に、あの女が立っていた。
咲蘭(さら)が悲鳴をあげるより早く細い二本の腕が突き出され首に巻きつく、とたんに咲蘭(さら)の精神に去来したもの。
――激しい怨念と微かな悲しみの残滓。
薄れ行く意識の中で咲蘭(さら)は、幽鬼から発せられる怨みの慟哭を聞いた。
無人になったバスルーム、流れ落ちるシャワーの音だけが、いつまでも高く鳴いている・・・・・・。
その後、咲蘭(さら)の消息を知るものはいない。