大学時代、僕は親元を離れて一人暮らしをしていた。
僕はひたすらに安さを追求し事故物件も大歓迎であった。
根っからの現実主義者でオカルトの類は信じていなかった。
それでも怖い話は大好きで幽霊がいるなら実際に会ってみたいとも思っていた。
僕が探し出した事故物件には入居した女性が浴槽で入水自殺したという曰があった。
築三十年の木造アパートで外観も内装もボロボロ。
元々安い家賃が二万円にまで落ちこんでいた。
僕は魅力的な値段に釣られて入居を即断する。
その際僕は不動産屋に興味本位で出るかどうか聞いてみた。
「ええ、色々と話は聞いています。でも事前にそれを貴方に話してしまうと先入観といいますか。漠然としたイメージを空想して幻のようなものを見てしまうんじゃないかと思うんです」
他の退居した人々は何かを見たらしい。
仮に僕が何かを見て、それが他の退居者達の話と符合するなら怪奇現象であることの裏付けとなるだろうという説明に納得し、僕は詳しい話を聞かなかった。
女性が入水自殺したという問題の浴槽は古いタイプのもので、床と浴槽の間に隙間があった。
浴槽と連結されている湯沸かし器は年季が入っているためか生温いお湯しか出なかった。
僕は女性が浴槽の中に入って自殺する姿を想像してみる。
足を曲げなければ入ることが出来ない狭い浴槽の中で膝を抱えながら首を曲げ顔を水につけている。
女性は何故こんな苦しい方法で死のうと思ったのか。
何故窒息死するまで耐えることができたのか。
考えてみると不思議であった。
暗闇の中で女性が顔を上げる。
頭からパラパラと水滴が落ち水面を波立たせる。
女性は首だけを回し僕に視線を向けようとする。
ただの空想だ。
僕は頭の中でホラー映画のような情景を思い浮かべることを楽しんだ。
夜になると流石に不気味で、暗い部屋の中で心細さと恐怖が醸成されていく。
布団の近くに放ってあったビニール袋に足が当たる。
潰されたビニール袋は数百秒の時間をかけて正常な形に戻ろうとする。
チリッ・・・・・・チッ。
ビニール袋が断続的に音を立てる。
普段は何も感じないような環境音も夜だけは不気味に聴こえ、僕の体は硬直していく。
僕は暗い風呂場に女性がいる光景を想像してしまう。
単なる想像でも気配のようなものを感じることはよくある。
髪を洗っている時に誰かの気配を感じるという経験は誰もがしていることだと思う。
僕はそれを霊感に結びつけようとは思わない。
空気が張り詰めていると感じるのも僕の主観がそう思わせているだけで気のせいだと思っている。
しかし、気のせいであってもそれは侮れないもので、僕はかなりの緊張状態にあった。
極度の緊張状態が幻覚を見せたとしても不思議ではないのかもしれない。
退居者達もそうだったんじゃないかと思い始めたその時、妙な音が聴こえてくる。
ゴポ・・・・・・。
排水溝に水が流れる時に空気が漏れる音だ。
他の入居者が風呂にでも入ったのか、それにしては音が近い。
排水溝の中からくぐもった喚声が聞こえてくる。
それは赤ん坊の産声に似ていた。
排水溝から聞こえる赤ん坊の泣声からは生気というものがまるで感じられなかった。
赤ん坊が甲高く声を張り上げて泣き喚く様には躍動感のようなものがあるが。
排水溝から聞こえる声はこの世に生まれてきたことを知らせるというよりは、呪っているように聴こえた。
僕はたまらず起き上がって電気を点ける。
すると喚声はパッタリと止む。
扉が開け放たれた風呂場の中を僕は暫く呆然と眺めていた。
何も無い。
恐怖に縮み上がった僕は尿意を催す。
僕はテレビをつけて少し気を紛らわせてから、恐る恐る風呂場へ近づいていく。
風呂場の床は乾いている、何も異常は無い。
しかし用を足した僕は異変に気付く。
何も聴こえない。
CM明けの無音が長すぎる。
テレビは消していない筈なのに。
ゴポ・・・・・・。
僕の全身の毛が逆立つ。
飛び退くようにその場を離れた僕はテレビを確認する。
電源が入っていない。
リモコンを押してもスイッチを押しても反応が無い。
ゴポ・・・・・・。
排水溝の音が耳元で聴こえたような気がした。
僕は部屋着のまま部屋を飛び出した。
僕はこの件をまだ誰にも相談しなかった。
事故物件であることを知っていながら入居した僕に責任の大部分がある。
仕方なくコンビニで時間を潰して翌朝部屋に戻る。
テレビのスイッチを入れると問題なくついた。
あれは幻聴だったのだろうか。
僕はすっきりしないまま大学に向かった。
その夜は電気を点けたまま布団に入る。
昨夜のような怪奇音は聴こえず。
寝不足のおかげですんなりと眠りにつくことができた。
僕は風呂場の鏡の前で髭を剃っていた。
シェーバークリームには錆びのようなものが浮いていて、気持ち悪いと思いながらも僕は髭を剃り続ける。
剃刀を落とす。
床で転がった剃刀が浴槽の隙間に入っていってしまう。
僕は腹這いになって隙間を覗く。
浴槽の狭い隙間からドス黒く腐った何かが覗いている。
隙間から手が伸び僕の腕を掴む。
凄まじい腐臭に吐きそうになりながらも僕は絶叫して抵抗する。
腕が隙間に飲み込まれて行く。
目を覚ました僕の腕には手の形をした痣のようなものが浮かんでいた。
限界を感じた僕は後日不動産屋に連絡する。
「やはりそうですか。皆同じような事を言うから気味悪く思っていたんですよ」
「詳しい話を聞かせてくれませんか」
不動産屋の話によると、自殺した女性は輸入代行者から買った違法な薬剤による中絶と流産した胎児の処理を請け負っていたらしい。
女性は風呂場で沢山の胎児を解体し、秘密裏に処理していたようだ。
証拠品は押収されたが女性は自殺した為不起訴処分だったとのことだ。
吐き気がするような話だ。
僕は勿論退居することに決めた。
高い金を払って除霊するほど物件的価値は無く、心霊騒ぎに半信半疑な大家は放置するつもりらしい。
でも僕にはもう関係が無い話だ。
しかし、新しい物件が見つかるまで僕はあの部屋に滞在していなければならなかった。
その日の内にあらかた荷物を纏めた僕は明日の物件探しに備えて眠ることにした。
心身共に疲れていた僕だが、中々まんじりとできずに色々と考えていた。
夢の中で僕の腕を掴んだ黒いモノはおそらく自殺した女性だろう。
彼女は僕に助けを求めていたのかもしれない。
彼女は今も沢山の胎児達の怨念に縛られ続けているのだろうか。
胎児達は深い暗闇の中で命を落とした。
胎児達は何も見たことが無いし、何も聞いたこともない。
全くの無知だ。
自分の姿も知らない。
自分が何であるかさえも解らないまま死んだ。
背筋に冷たいものが走る。
胎児の霊はどんな姿形をしているのだろうか。
言葉も知らないのに思考できるのか。
自分を人間だと思っているのだろうか。
僕の体は知らない間に震えていた。
もしかしたら、胎児の霊は僕が考えていたよりも得体が知れなくておぞましい存在なのではないか。
黒いモノが浴槽の隙間から半身を出してのたうっている。
僕はもうこの黒いモノに対する恐怖を殆ど失っていた。
「コワイコワイコワイコワイ」
黒いモノがズル、ズル、と排水溝の中に引き摺られていく。
黒いモノを支配している感情はおそらく原始的な恐怖だけであった。
僕も同じ恐怖にガタガタと震えている。
黒いモノは排水溝に完全に飲み込まれてしまった。
暗い配管の底から耳障りな音が響く。
そして産声。
排水溝から何かが這い出てこようとしている。
見たくないのに目を離せない。
逃げようにも体が動かない。
発狂しそうになった僕は涙を流しながら絶叫する。
目が覚めた時、電気をつけていたはずの部屋は真っ暗だった。
ゴポ・・・・・・。
僕は脇目も振らずにただ逃げ出した。