牛から生まれた妖怪

カテゴリー「不思議体験」

件(くだん)は、19世紀前半ごろから日本各地で知られる妖怪。
「件」(=人+牛)の文字通り、半人半牛の姿をした怪物として知られている。

その姿は、古くは牛の体と人間の顔の怪物であるとするが、第二次世界大戦ごろから人間の体と牛の頭部を持つとする説も現れた。
幕末頃に最も広まった伝承では、牛から生まれ、人間の言葉を話すとされている。

生まれて数日で死ぬが、その間に作物の豊凶や流行病、旱魃、戦争など重大なことに関して様々な予言をし、それは間違いなく起こる、とされている。
また、件の絵姿は厄除招福の護符になると言う。

別の伝承では、必ず当たる予言をするが予言してたちどころに死ぬ、とする話もある。
また歴史に残る大凶事の前兆として生まれ、数々の予言をし、凶事が終われば死ぬとする説もある。

江戸時代から昭和まで西日本を中心に日本各地で様々な目撃談がある。
この怪物の目撃例として最古と思われるものは、文政10年(1827年)の越中国・立山でのもの。
ただし、この頃は「くだん」ではなく「くだべ」と呼ばれていた。

山菜採りを生業としている者が、山中でくだべと名乗る人面の怪物に出会った。
くだべは「これから数年間疫病が流行し多くの犠牲者が出る。しかし自分の姿を描き写し絵図を見れば、その者は難を逃れる」と予言した。

これが評判になり、各地でくだべの絵を厄除けとして携帯することが流行したと言う。
江戸時代後期の随筆『道徳塗説』ではこれを、当時の流行の神社姫に似せて創作されたものと指摘している。

▼倉橋山の件を描いた天保7年の瓦版

「くだん」としての最古の例は天保7年(1836年)の日付のある瓦版に報道されたもの。
これによれば、「天保7年の12月丹後国・倉橋山で人面牛身の怪物『件』が現れた」と言う。

またこの瓦版には、「宝永2年12月にも件が現れ、その後豊作が続いた。この件の絵を貼っておけば、家内繁昌し疫病から逃れ、一切の災いを逃れて大豊年となる。じつにめでたい獣である」ともある。

幕末に入ると、件は突如出現するとする説に代わって、人間の飼っている牛が産んだとする説が広まり始める。

慶応3年(1867年)4月の日付の『件獣之写真』と題した瓦版によると「出雲の田舎で件が生まれ、『今年から大豊作になるが初秋頃より悪疫が流行る。』と予言し、3日で死んだ」という。

この瓦版には「この瓦版を買って家内に貼り厄除けにして欲しい」として人面牛身の件の絵が描かれており、件の絵画史料として極めて貴重なものである。

明治42年(1909年)6月21日の『名古屋新聞』の記事によると、10年前に五島列島の農家で、家畜の牛が人の顔を持つ子牛を産み、生後31日目に「日本はロシアと戦争をする」と予言をして死んだとある。

この子牛は剥製にされて長崎市の八尋博物館に陳列されたものの、現在では博物館はすでに閉館しており、剥製の行方も判明していない。

明治時代から昭和初期にかけては、件の剥製と称するものが見世物小屋などで公開された。
小泉八雲も自著『伯耆から隠岐へ』の中で、件の見世物をする旅芸人についての風説を書き残している。

それによると明治25年(1892年)、見世物をする旅芸人が美保関行きの船に件の剥製を持ち込んだ。
しかしその不浄の為に神罰が下り、その船は突風のため美保関に上陸できなくなったという。

昭和に入ると、件の絵に御利益があるという説は後退し、戦争や災害に関する予言をする面が特に強調された。

1930年(昭和5年)頃には香川県で、森の中にいる件が「間もなく大きな戦争があり、勝利するが疫病が流行る。しかしこの話を聞いて3日以内に小豆飯を食べて手首に糸を括ると病気にならない。」と予言したという噂が立った。

1933年(昭和8年)にはこの噂が長野県で流行し、小学生が小豆飯を弁当に入れることから小学校を中心に伝播した。
ただし内容は大きく変わっており、予言したのは蛇の頭をした新生児で、諏訪大社の祭神とされた。

第二次世界大戦中には戦争や空襲などに関する予言をしたという噂が多く流布した。

昭和18年(1943年)には、岩国市のある下駄屋に件が生まれ、「来年4、5月ごろには戦争が終わる」と予言したと言う。

また昭和20年(1945年)春頃には松山市などに「神戸に件が生まれ、『自分の話を信じて3日以内に小豆飯かおはぎを食べた者は空襲を免れる』と予言した」という噂が流布していたという。

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