日本初の女性騎手、斉藤澄子の話。
澄子は青森県の農家に生まれた。
戦前はどこの農家でも馬を飼っていたから、一般人が馬に乗る機会は今よりもずっと多かった。
そんな中で澄子は「馬と喋れる」と言われたほど抜群に馬乗りが上手かった。
澄子は草競馬を見て騎手という職業を知り、どうしてもこの世界に入りたいと思った。
しかし当時、競馬は完全な男社会で、女が馬の寝藁を跨いだだけで汚れるとされたほどだった。
だから入門を許した調教師は、澄子に完全に男として振る舞うことを要求した。
澄子は髪を切り、胸にさらしを巻き、キセルで刻み煙草を吸いながら男言葉を喋った。
澄子が女であることはあっという間に知れ渡ったが、その熱心さに打たれて同僚も澄子を応援していた。
男として暮らし7年、23歳になった澄子はついに騎手の免許を取得した。
調教師はどうせなら好成績でデビューを飾ってやりたいと思い、機会を待った。
そして『ハコバンザイ』という馬を確保し、いよいよデビュー間近となったある日、東京の新聞に、澄子が馬上で後ろを振り向いてウインクをし、後続の騎手が落馬するという風刺漫画が掲載された。
そしてデビュー3日前、競馬を管轄する農林省から『女性騎手のレース出場不可』という通達が出された。
・・・女性騎手は風紀を乱すというのがその理由だった。
翌年1月、競馬規則に『騎手にありては満十九歳以上の”男子”にして・・・』という一文が添えられた。
騎手への道を絶たれた澄子は、馬の世話をする厩務員として過ごしたが、煙草と、さらしで胸をきつく締め続けたことから肺血腫にかかり、1942年に29歳の若さで亡くなった。
澄子のデビュー戦のお膳立てをしていた調教師は、「あのとき負けてもいいから他の馬に乗せてやっていれば、一度は晴舞台を踏ませてやれたのに・・・」と泣いたという。
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