我が家には小さいながらも庭がある。
人は怖がって入ってこない。
昔の話になるが、ある晩寝苦しさに目覚めると、井戸ポンプを動かす音が聞こえた。
さては水泥棒だな?と、縁側の雨戸の隙間から見てみると、当然暗くてよくわからない。
が、まあ人間の大きさなら影くらい見えるものだろうと、意を決して雨戸を開け放った。
「ぎゃあ」と叫び声をあげたのは、逃げた小動物ではなく俺の方。
俺は赤ん坊の頃、猫に顔面ざりっとやられて顔に傷を持つ男なので、大の動物嫌いだった。
翌朝起きてから心配になった。
見た小動物の影は、肋が浮いていた気がしたんだ。
いやいや見間違いに違いあるまいと思い込もうとしたが、嫌いだからといって確認もせず見放すわけにもいくまいと、何晩か張り込んでみた。
中々来ないのでまた早寝習慣にもどって数日した夜に、また目が醒めた。
予感めいたものを感じて縁側に出てみると、件の動物がポンプからこぼれた水をペチャペチャとやっていた。
心中うわぁだったが、静かに行動したと思う。
台所で用意したものを持って縁側に出ると、ひくりひくりと腹を動かしていた小動物がさっと耳をそばだててこちらを見た。
食べ物の匂いには敏感らしい。
こっちはそんなもんでもビクつくわけだが、さりとて死んで欲しいほど嫌いというわけではないので、渋々縁側から下りていって、庭石の上にキャドフードを置いてみた。
塀のそばの茂みに隠れていた猫が観念して姿を表したのは、近づいてきた俺に怯えてひっこんでから何十分かした頃だった。
俺の方が先に根負けして、翌日の仕事のために寝るかと考えはじめていた頃だった。
それから動物嫌いの俺と人間嫌いの猫との奇妙な飼育関係がはじまった。
猫に名前をつけようとも思わない俺は、奇妙なことに餌を切らさないように買い込んで、人間を見ると逃げ隠れする猫も、致し方なしと覚悟を決めて餌だけ盗み食いをする。
お互いこんな調子なんだが、なぜだか互いを尊重したかのような距離感で接していた。
一度だけその猫がミャアと鳴いたのを聞いたことがある。
餌を毎晩どころか日中も用意しておけば食べているようになった頃だ。
痩せこけていた姿も大分ふっくらとして元気を取り戻したので、俺は安心して餌を庭に置いてぐーすかやっていた。
もしかしたら何度か鳴いていたのかもしれないが、瞼が持つ引力にはその時は逆らえなかった。
そして唐突に猫が来なくなった。
その九ヶ月後位に一人の男が逮捕された。
飼い主だった男だ。
自分の飼っていた猫が邪魔になったので放り捨て、それでも健気に戻ってくる猫を餌を与えずに野垂れ死にさせようと企み、それがどこかで餌をもらって元気になると、二度と家に帰れないように殺したということだった。
怒りで顔に血膨れが出来たことなんて後にも先にもあれだけだ。
俺は知っている。
人間が怖いのに、生きるために怖い人間からでも糧を得て生き延びた姿。
そうまでして生き延びたのは、多分怖い飼い主だとわかっていても、それでも信頼があったからなんだろうと。
それから二年くらい過ぎて、我が家の庭が荒らされる事件が起こった。
被害届を出したりなんなりして暫く経ったある夜、凄まじい悲鳴に目が醒めて慌てて庭に出ると、そこには猫殺しですっかりご近所から爪弾きにされている男がいた。
ベビーベッドの上の赤子のような両手両足を宙に突き出したような格好でもがいている。
その時俺にも、元飼い主を組み伏せている虎のような姿になった懐かしい毛並みが見えた気がした。
警察を呼んでそれが着く前に、せっかくだから名前がないと思ってミアと名付けた。
保護した不審者の指紋が、庭が荒らされた時に採取されたものと一致した。
この話を聞いた後で俺が望んだ事は面会だった。
俺は最初に、どうして俺の家に変な真似をしでかしたかを聞いた。
俺が通報したから捕まって仕事を失ったんだと思った、と言われた。
随分手前勝手な話もあったもんだと呆れたが、それは事実じゃあないと説明すると、男はすんなり納得した様子だった。
俺が説明したのは、生死の境にあって井戸水の盜み飲みをはじめた猫が、人間不信でありながら飼い主のもとに生きて戻るために、なぜだか置かれる不思議な食事を腹にたっぷり蓄えて、いつか家に入れてくれるご主人様の家にまた戻っていった話だ。
同席していた警察官なんかは、半信半疑ながらポロリと涙をこぼしていた。
男も、そこまで信頼されていたのだと理解すると態度が変わっていた。
後悔がはっきりと見えたところで、俺はミアは返さないと宣言した。
もうあんたのとこの子だよと、男も目をうるませながら言っていた。
仕事に疲れて仕事を失ってあれこれしていて煩わしくなる前は、心底かわいがっていたのに、どうしてあんな気持ちになっていたのか。
そう白状した男の姿は、ミアが慕っていた飼い主の顔として俺も納得するものだった。
化け猫が出た家。
今の我が家のご近所から貼られたレッテルはこうだ。
俺がミアのために、かかさず食べられもしない猫の餌を置いているから、まことしやかに囁かれた噂は、いつしか俺が化け猫に怯えてそうしているというものに変わった。
おかげさまで人払いの必要もなく我が家は静かだ。
たまに縁側に腰掛けていると、ふと冷気がふとももの上に乗ってくる。
ぷっくり丸く元気になった頃の毛並みに見えるが、それにはもう生気はない。
殺された時の姿なんだろうか、首が折れていた。
しばらくはこう考えていた。
もしもこれが幻覚であったら、自覚したら見えなくなるのではないか。
そんなことが怖くてなかなか聞きにいけずにいたが、例の事件の時に関わった警察官にミアの死因をきいて、首を捻り殺されたと確認がとれた。
以後もミアの亡霊は度々出てきてくれている。
生きているうちに撫でたかったが、この手は当然素通りだ。
生きているうちに撫でてやれたら、ミアはうちの子になって殺される事はなかったのだろうかと、時折そんな事を思う。
あの経験を通して俺には一つ恐怖がある。
後日、元飼い主と細かい話をする機会があった時から感じたことだ。
子猫の頃に知り合いから譲り受けたミアが可愛くて仕方がなかったらしい。
だが、最初の失職後一年近く次の就職先探しが難航していたそうで、その過程で愛が憎悪に変わったそうだ。
減っていく預金の残高、達成しなければならない節約目標。
呑気に餌をねだるだけの生活が出来る猫と自分を対比して、日に日におかしくなったと彼は言った。
追い出したのは最後の良心だったと涙を浮かべていた。
しかし、手取り12万程度の職にどうにかありついてで細々とやっている頃に、見かけるたびに肥えて元気になっていく姿を見て、彼は彼なりに激怒したらしい。
ある日昔のように撫でる振りをしてみたら、まっしぐらに飛び込んできたミアの首を気づいたらへし折っていたそうだ。
一度目も失職、二度目の我が家への逆恨みのときも失職。
つくづく生きる糧を失う恐怖というのは恐ろしいものだと思う。
愛猫を我が手で殺した罪を自覚して話す間中、手を痙攣させる相手の姿に、俺は微塵もペットの虐待を好むようなタイプであるような印象を抱かなかった。
失職なんて俺の身にだっていつ起きないとも限らない。
生活の糧を得られなくなった時、俺はミアの求めた優しい主人でい続けられるんだろうか。
今はそれが怖い。