うちの母方の実家が檀家になってるお寺の話。
このお寺はそれほど大きくもないし有名でもないんだけど、母が住んでた村の住民は三分の二以上がそのお寺の檀家になっていた。
残りの三分の一は被差別集落の人たちで、その人たちのための別の寺があったようだ。
ただ太平洋戦争後は過疎化が進んで、集落の人はほとんどちりじりにどこかに行ってしまい、
そっちのお寺はもうなくなっているらしい。
その実家のお寺には「入ってはいけない場所」・・・禁域がある。
子供の頃、母の里帰りについていったときに見て話を聞いた。
そこは寺の本堂の裏側を数百mほどいった、ちょっとした崖になっている下の方で、上から見下ろすと何ということもなく熊笹の茂みが広がっており、大きな石を掘った祠があるだけ。
崖の上は木の柵で降りられないようになってて、柵の内側に四つ大きくて立派な墓がある。
この四つの墓はそのお寺の昔の歴代住職のもので、崖下から忌みものが村に戻っていかないように守っているんだそうだ。
江戸時代に村外から広まってきた流行り病でばたばたと人が亡くなり、あまりに数が多いのと屍体から感染することを怖れたために、疫病で亡くなった人は家族が大八車にのせてこの崖まで運んできて、そのまま下に転げ落としたという。
上から木っ端と松明を投げ落としたものの湿気のせいかあまり燃えず、夏の時分でもあり半焼け半腐りの屍体が積み重なってひどい臭いだったようだ。
その後ある程度疫病が収まってから残った村人で法要を開き、高価な油を使って屍体を焼き、その上に祠を掘った丸石を転がし落とした跡なのだそうだ。
また、そのときにまだ健在だった実家の祖母から『疫馬』の話も聞いた。
これは祖母が子供の頃まで旧暦の8月25日に村で行われていた行事で、回り当番の衆以外には、誰も見てはならないものだった。
ただし今にもそのやり方は伝わっていて、村史などには書かれていないが、まだ覚えている年寄りが何人かいる。
夕方から夜にかけて村の大通りを、男数人が担いだ皮をはいだ太い丸太が村外れの山道のほうに向かってゆく。
祭りのようなにぎやかなかけ声もなく男たちは無言だ。
丸太には裸の男の子供をかたどった紙貼人形がまたがる形で乗せられている。
裸の体はところどころ斑点のように赤く塗られていて、これは疫病にかかった人の姿を表している。
村の家々では固く戸を閉ざしてこれが通るのを見てはならない。
そして村の境界まで来ると「疫神様出て行ってくれ、本物の馬に乗っていってくれ」というような内容のことを皆で唱え、その人形を山道のほうに放り出す。
そのあと丸太を担いだ男たちは川に入って身を清め、丸太を氏神の神社に奉納する。
これは人形を用いているが、疫病が流行っていた当時はまだ息がある子供の病人を丸太に乗せていったのだそうだ。
これは神社の神官の主導で行われたらしいが、お寺と神社の役割の違いのようなものが伺えて興味深い。