世界が愛した『バロン西』

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オリンピックの馬術競技史上、日本人が獲得したメダルは僅か1つである。
それが、1932年ロサンゼルスオリンピック・馬術大障害飛越競技で金メダルを獲得した西竹一(バロン西)です。
『硫黄島からの手紙』にも登場したことから、知ってる方もいると思います。

西竹一は、西徳二郎男爵の三男として華族の生まれである。
1921年4月、陸軍士官学校制度の改編で中央幼年学校本科を半年で修了すると、新設の36期陸軍士官学校予科入学。
陸軍士官学校本科卒業、陸軍騎兵学校を卒業。
1930年にイタリアで愛馬ウラヌス号に出会う。

「誰にも乗りこなせない悍馬」ウラヌス号は陸軍から予算が下りず、かなりの高額ながら自費での購入であった。

1932年8月のロサンゼルス五輪。
満州事変を受け、反日感情が高まる中、行われた大会の最終日閉会式の直前に行われる馬術大障害飛越競技は、当時の五輪に於いて最大の華だった。

西は、愛馬ウラヌス号を駆って生涯を見事にクリア。
減点数8で、優勝候補だった米国のチェンバレン少佐に4点の差をつけて優勝した。

10万人の観衆で埋め尽くされたコロシアムの記者会見で、最後の障害でウラヌス号自身が自ら後足を横に捻ってクリアしたこともあり、インタビューでは「Wewon」(自分とウラヌス号が勝った)と応じ、当時の日本人への敵愾心を越えて世界の人々を感動させた。

この大会で金メダルを獲得した西の名は世界中に知れ渡ることになる。
この金メダル獲得で国民的英雄となった西は、豪快で明るく自由奔放、英語を流用に話し、欧米では『バロン西(西男爵)』として親しまれ、社交界でも人気者だった。

また当時排斥されていた日系人の人気を集め後にロサンゼルス市の名誉市民にもなっている。

金メダルの栄光から13年、西は馬を降り、戦車連隊長として最前線に赴くことになる。
着任先は本土防衛の最前線、硫黄島。

1945年、硫黄島の戦いにて、小笠原兵団(第109師団)直轄部隊として戦車第26連隊の指揮をとることとなった。
硫黄島においても愛用の鞭を手にエルメスの乗馬長靴で歩き回っていたという。

1945年2月19日、硫黄島に米軍が上陸を開始すると、日本軍は栗林中将の指揮の下、見事な持久戦を展開し、上陸軍に多大な損害を与えていく。

しかし、敵の圧倒的な兵力を前に次第に苦戦を強いられるようになり、西の連隊も全ての戦車を失い、硫黄島東部に孤立してしまう。

西はこの戦闘で米軍の火炎放射器によって負傷し片目の視力を失ってしまう。
また、800名は居た西の連隊は、この頃既に60名を数えるばかりだった。

硫黄島の戦いで西の率いた戦車第26連隊は玉砕することとなったが、攻撃したアメリカ軍は『馬術のバロン西、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい』と連日呼びかけたが、西大佐はこれに応じなかった。

当時の米軍の記録フィルムに稚拙ながらも日本語でハッキリと投降勧告を告げている。
3月17日、父島に向けて「西部隊玉砕」を打電数名の残兵を率いて進撃中、硫黄島東海岸付近で戦場の露と散った。(詳細は不明)

西の遺骸は敵の手に渡らぬよう部下の手によって砂浜に葬られた。
西はこの時、乗馬靴に鞭、そしてウラヌス号の鬣(たてがみ)を身に着けていたという。

西の戦死から一週間後、年老いた愛馬ウラヌスも東京世田谷の馬事公苑の厩舎で西のあとを追うかのように静かに息を引き取った。

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