一之瀬川のサラリーマン

カテゴリー「不思議体験」

釣り雑誌のライターさんから聞いた、という話を友人から又聞きした話です。

青梅街道で奥多摩を抜けて、ご存知のおいらん淵のほんの少し手前に川の合流があります。
一ノ瀬川という支流で、この合流からしばらくの間はゴルジュという、谷と言うよりは垂直の崖の間を流れるような川です。
町谷さんという、主に渓流釣りを楽しまれている方が居りまして、「人を寄せ付けない場所であれば、さぞ魚も釣れるだろう」と、止せば良いの合流から川に入り竿を出したんだそうです。

ところがさっぱり魚は釣れない。
川から出るにも両岸とも高い岩壁、嫌々ながら遡行を続けました。

一ノ瀬川にも更に幾つかの支流があり、大常木谷という沢が流れ込んでいます。
釣りのポイントとして実績があり、沢登りでも人気のある川ですが、やはり険しい場所。
滑落などで少なからずの死亡事故が発生している”悪渓”と呼ばれる沢です。
良いポイントではあるものの、単独行では危険と判断し、この合流には入退渓できる箇所もあるので、別の川に移動しようかと考えたそうなのですが、どういうわけかここから急に魚が釣れはじめる、それも良好なサイズの魚がかかる。
その先は再びゴルジュとなりますが、そのまま一之瀬川を釣り上ることにしたそうです。

相変わらず釣果は絶好調。
途中3mほどの滝があり、ここでこの日一番の良形を手にして大喜び。
更に大物を!と、滝を越えると、上流に先行者いることに気がついたそうです。

竹の和竿を振り、一目で上手とわかる所作ではあるものの、その出で立ちはスーツにビジネスシューズ、ハンティング帽という異様なものでした。
とは言え釣りの腕前は相当のもので、次々と魚を釣り上げていく。
普通なら徐々に上流へ移動しポイントを変えて行くものですが、スーツの男は全く移動せず、同じ場所で釣り続けていたそうです。
渓流釣りの場合、先行者を追い越して先へ行くという行為はマナー違反とされているのですが、先行者が移動しないような時は断りの上で、先へ行かせて貰う事ができます。

町谷さんはかなり不気味だと感じたものの、上流に入らせてもらう為に「こんにちは、今のは良い魚でしたね」と声をかけました。
その時、スーツの男は町谷さんに背をむけてしゃがんでおり、針でも外している様子だったと。

「尺はあるでしょう。お上手ですね」と続けて話かけたものの、スーツの男はしゃがんだまま無言。
耳が不自由なのかなと、視界に入るように男の右側へ出ると、男は顔を背けて町谷さんを見ようとしない。
でも、男が何をしているかは分ったそうです。

標本用のガラス瓶に、魚を押込んでいる。
それも一匹二匹ではなく、魚の原型が無くなる位にぎっしりと詰め込まれている。

やはりまともではない、係わり合いになるのは止そうと、「お先に」とだけ言って男の脇を通り過ぎたそうです。

男は町谷さんの動きに合わせて背を向け、やはり顔を見せようとしなかったそうですが、その間も魚をビンに押込んでいるようだったと。
10mほど歩いたところで、男が気になった町谷さんが振り返ると、男は居なくなっていたそうです。
両岸は10m近い高さの岩壁、下流には滝と、容易に脱渓できる場所ではなかったそうですが・・・。

後日、町谷さんは釣り仲間同士の飲みの席で、「奥多摩にこの人あり」と言われる重鎮と会われた際に、このスーツの男の話をしたそうです。
この方は、かなり細い支流や沢に至るまで踏破し、雑誌連載を持ったこともある、奥多摩の主のような方だったそうですが、町谷さんの話を聞き終えると、「町谷さんも見ましたか・・・」とだけ、呟かれたそうです。

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