現在は学問の神として親しまれている菅原道真。
忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。
しかし、左大臣藤原時平に讒訴(他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること)され、大宰府へ権帥として左遷され現地で没した。
子供四名も流刑にされた。
それから、京では奇妙な出来事が起こるようになった。
菅原道真が死んだ直後、比叡山延暦寺の第13代座主(一番偉い僧)法性房尊意の目の前に菅原道真の霊が現れ「今から私を左遷に追いやった者達へ復讐のために祟りに行きますが、もしそれらの者達があなたに助けを求めてきても応じないでください」と告げたと言われている。
菅原道真の死後、京には異変が相次ぎ、醍醐天皇の皇子が次々に病死した。
さらには朝議中の清涼殿が落雷を受け、朝廷要人に多くの死傷者が出た。
菅原道真を左遷させる陰謀に加わった中納言「藤原定国(ふじわらのさだくに・藤原南家の人で『相関図』には載せてません)」が40歳の若さで急死。(906年)
菅原道真の左遷が決定した際、「醍醐天皇(だいごてんのう)」に直訴するため裸足で駆けつけた「宇多上皇(うだじょうこう)」の行く手を阻んだ「藤原菅根(ふじわらのすがね・藤原南家の人で『相関図』には載っていない)」が雷に打たれて死亡。(908年)
菅原道真を左遷に追いやった張本人「藤原時平」の両耳から蛇に化けた菅原道真が現れ、その蛇を退散させるために色々と祈祷させるが全く効果は無いどころか、逆に蛇となった菅原道真に「控えよ!!」と一喝されて祈祷師は退散してしまい、とうとう藤原時平は狂死。(909年)
貴族達の集団職務放棄の中心人物だった「源光(みなもとのひかる)」が狩りの最中に底なし沼に乗っていた馬ごとはまってしまい行方不明。(913年)
醍醐天皇の皇子で皇太子でもあった「保明親王(やすあきらしんのう)」が21歳の若さで急死。(923年)
保明親王の死後、醍醐天皇の皇太子となった「慶頼王(よしよりおう・保明親王の子)」が5歳で死亡。(925年)
これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行い、子供たちも流罪を解かれ京に呼び返された。
これにより、道真が天神(雷神)として祭られるようになる。
道真は生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになった。
なお、道真を祀る神社は、初めて天皇ではない人間が、天皇を祭る神社のみが付けられる「宮」の位を授けられている。