1914年6月28日、ボスニアの州都サラエボで、その後の世界の歴史を左右する大きな事件が起きた。
その日、サラエボでは、オーストリアのフランツ・フェルディナトンド皇太子とゾフィー妃の歓迎パレードが行われようとしていた。
使われた車は、この旅行中に皇太子が特別注文してあつらえた6人乗りの真っ赤なベンツ。
夫妻のほかにポチオレック将軍、護衛が同乗していた。
ところが、いざ出発という段になって、民衆の間から突然、爆弾が投げつけられた。
幸い爆弾は車の横腹に当たってはね返ったため、夫妻は無事だった。
普通はこんな事件があれば、パレードは中止になるはずだが、なぜかそうはならなかた。
車はやがて街の通りに入っていった。
するとそこへ突如、ある民家からピストルを構えた若い男が飛び出してきて、車に飛びつくや、皇太子夫妻の体に次々と弾を撃ち込んだ。
護衛たちが慌てて男を引きずり降ろしたときには、夫妻はすでに事切れていた。
犯人はオーストリアに反感を抱く、セルビア(当時、ボスニアの南にあった国)の民族主義者だった。
この暗殺事件をきっかけにオーストリアとハンガリーがセルビアに宣戦布告、セルビアは同盟国のロシアに救いを求め、さらにフランス、イギリス、ドイツが次々と参戦する大戦争が始まった。
いわゆる第一次世界大戦である。
ところで、皇太子暗殺事件のあと、問題のベンツは同乗していたポチオレック将軍の所有となった。
将軍はオーストリア第五師団長の地位にあり、戦争が始まるとすぐに陣頭指揮に立った。
だが、三週間のある戦いで大敗を喫し、本国に召還されてしまう。
将軍は結局、この屈辱に耐え切れず、精神状態に異常をきたした。
そして、救貧院に入ったまま生涯を閉じた。
そして三番目のベンツの所有者は、ポチオレック将軍の参謀を勤めていたスメリア大尉だった。
しかし大尉もまた、車を手に入れてからわずか九日後、ドライブ中にふたりの農民をひき殺し、自らも車もろとも立ち木に衝突、首の骨を折って死んでしまったのである。
この後ベンツはしばらく所有者がないまま放置されたが、大戦が終わると、ボスニアに代わって生まれたユーゴスラヴィアの州知事のものとなった。
彼は壊れていたベンツを修理したのち改造を施し、悦に入っていたが。
だが、運転を始めると四ヶ月間になんと4回も事故を起こし、ついに右腕を失うことになってしまった。
恐ろしくなった州知事は、「この車には、死神が取り憑いている」と解体を命じた。
しかし、そこにサーキスという医師が現れ、ほとんどタダ同然の値段でこれを買い取ったのだ。
しかし半年後ベンツが溝で横転しているのが発見され、サーキスはその下でぺしゃんこになって息絶えていた。
六番目の所有者は、オランダの宝石商。
このころにになると、ようやくこの車がもたらす災厄が評判となり、宝石商は俄然、人々の注目を浴びることとなった。
一年後、その期待に応じるかのように、彼は突然、自殺を遂げたのだった。
次にベンツの所有者になったのはある医師だったが、患者が寄りつかなくなったとのことで、スイスのレーサー、サミレスに売られた。
サミレスは呪など信じないたちで、すぐさまその車でアルプスのレースに参加した。
しかし、車は途中で横転し、サミレスは車外に投げ出され、障壁に激突して即死してしまったのだ。
九番目の所有者となったドイツの実業家もまた、石壁に衝突して命を落とした。
ベンツを手に入れてから、わずか二日後のことだった。
さすがにここまでくると、もはや買い手はつかない。
呪われたベンツは業者の間を転々としたあげく、何の因果か再びサラエボに戻った。
そして農場主のコルシュが、物好きにもこれを買い取ったのだ。
コルシュはいわくつきの車であることから、注意深く運転し、数ヶ月は何事もなく過ぎた。
それがある朝、ベンツが急に故障してしまったのだ。
仕方なく、通りかかった荷馬車を呼びとめ、町まで牽引してもらうことにした。
ところがイグニッションを切り忘れていたため、牽引されたとたん、車のエンジンが始動。
車は荷馬車を弾き飛ばして暴走したあげく、道路下に転落した、コルシュはもちろん、荷馬車の農夫までも、巻き添えを食らって即死したという。
壊れたベンツは自動車修理工場に運ばれ、経営者のヒルシュヘルトがそのまま所有者となった。
といっても、いわくつきの車である。
フルシュヘルトもさすがにそのままでは乗る気になれない。
そこで厄落としのつもりか、ベンツの色を赤から青に変えた。
だがそんな小細工は、かえって車の呪いを助長するだけだったらしい。
ある日、友人四人を乗せドライブに出かけたフルシュヘルトは、途中で前の車を追い抜こうとしてスピードを上げた。
そのとたん、ハンドルを取られて側壁に衝突してしまったのだ。
彼はむろん、同乗していた友人四人までもが無惨な最期を遂げた。
こうして『死神ベンツ』の名をほしいままにしてきたこの車はこののち、オーストリア政府に接収され、ウィーンの博物館に贈られた。
だが、第二次世界大戦中に連合国の爆弾によって博物館とともに、あとかたもなく破壊されてしまったという。