知人K氏の祖母の母のそのまた母、つまりK氏曾々祖母に当たる青山シノ女(仮名)は某村の庄屋の娘だった。
シノ女十四歳の時に、長い事寝たり起きたりを繰り返していた祖母の隠居が死んだ。
その少し前に息子夫婦(シノ女両親)が若くして死んだので、病身ながら事実上の当主として、一家の傾いた台所の采配を布団の上から気丈に振るい続けていた。
当主たるシノ女の兄は身体が弱く、十九歳だがまだ嫁も迎えていなかった。
当家には仲の悪い分家が一つあった。
隠居の具合が悪化するにつれ、本家の現状に目を付けたかの家の主が足繁く訪ねてくるようになった。
日ましに態度を増長させてゆくかの家の主を幾度も追い返しながら、隠居はじっと黙り込んでいる事が多くなった。
隠居は一匹の猫を生まれたときから育てており、普段から何くれとなく世話をしては可愛がっていた。
シノ女が物心付いた時にはもう老猫で、飼い主同様部屋から外へ出ることはほとんどなかった。
通夜の当日は雨天であった。
集まってきた客や親戚連中が「隠居の涙雨かいな」など無責任な軽口を叩く中、件の分家当主も家族を引き連れ現れた。
かの人の内心の喜びは子供のシノ女の眼にも明らかだった。
兄が相手をしている間、シノ女はどうしても厠に行きたくなった。
住持の到着には少し間があったので急いで席を立った。
座敷を出ると外はもう豪雨、厠は炭部屋沿いに廊下を抜けた先にあった。
厠から出て手を洗いつつ、今後の自家の行く末を思いやり心細さを募らせていると、果たして障子のすぐ向こうより轟々たる雨音に混じって「安心おし」と隠居の低い声が聞こえた。
ハッと障子を開けたが誰もおらずシノ女の背筋は凍りついた。
座敷に戻ろうと廊下へ出た途端、炭部屋の方から「キャッ」という叫び声。
驚きのあまり一瞬恐怖も忘れ駆け付けると、手伝いの農婦が二人で抱き合い土間にヘタリ込んでいた。
どうしたのかと声をかけると「隠居さんが・・・隠居さんが・・・」と言いながらガタガタ震えているばかり。
よくよく問い質してみるに、座敷に面した中庭――その庭石の上に、仏間に横たわっているはずの隠居が雨の中蹲って、じっと座敷を覗いているのが見えた――と慄きつつ言う。
しかし二人の指差す先に恐る恐る視線を走らせたシノ女の眼に映ったものは、何やら布のようなごく小さな塊だった。
何かしらんと眼を凝らすと、不意にそれがムクムクと動いて持ち上がった。
布の下から見えたのは毛に覆われた細い足が二本。
それは隠居が日頃可愛がっていたかの老猫であった。
「アッ」と声を上げた瞬間、座敷から今聞いたどころではない、とてつもなく物凄い悲鳴が上がったかと思うと、中庭に面したあちこちの障子が開いて、通夜の客が雨の中傾れを打つようにして一斉に転げ出て来た。
座敷では腰を抜かして動けない人々が震えているその側で、分家の主が経帷子の隠居の死骸に抱き付かれ七転八倒していた。
やがて我に返った皆が近付いてみると、かの人は持病であるところの心臓発作が出たのか青い顔でウンウンと唸っていた。
数人が寄って集って幾ら死骸を引っ張っても離れず、途方に暮れているところに住持が現れた。
住持はその光景を一見して目を丸くしたが、やがて死骸の傍らに座って御真言を唱え一喝するや、死骸の腕は嘘のようにアッ気なく離れた。
その頃には病人はもう既に虫の息だった。
村医者はまだ弔問に来ておらず、マゴマゴしている内にとうとうそのまま死んでしまった。
村医者氏が到着したのはスッカリ冷たくなった後で、大雨で道が崩れていたので遠回りしてきた由であった。
猫は騒ぎの合間に走り去ってしまった。
新たな死骸は家族が泣き喚く中、戸板に乗せられて当人の家に運ばれていった。
猫が被っていたのは隠居の病室の押入れにあった袱紗であった。
訳を聴いた住持がそれを引き取って懇ろに供養した。
住持は「二十四年も生きた猫だから、いずれは化けもしようと思っていた。化け物なりに隠居の思いを汲んで自分が出来ることをし、それが見事果たされたのだから、今後この家に現れることは二度とない。猫は元来そういう生き物だから」と言った。
事実それからかの猫の姿を見ることはなかった。
主の急死とともに分家は急速に没落し一家は離散してしまい、後に残った分家の土地も全て本家のものになった。
猫の祟りと隠居の怨念を眼にした上は、もう誰も本家に手をつけようと画策する者は無かった。
シノ女は翌年嫁し、病弱であった兄も徐々に健康を取り戻し、やがて娶ると程なく何人もの丈夫な子供たちに恵まれた。
本家は元通り裕福になった。