ひんやりと湿った岩が掌に貼り付く。
まずは右手、右足。
右手中指が数ミリの突起をとらえ、指先を曲げた。
靴にくるまれた爪先が岩のくぼみを感じ、しっかり体重を乗せると、続いて左半身が岩を求め、動き始める。
土、枯葉、緑の匂いが混じりあい、肺を満たす。
目の前、全身を預ける岩からは、強く苔が匂っている。
気温が上がる前の、沢筋にある岩場特有の空気がたまらなく好きだ。
登ったからといって、達成感を強く感じるような岩を登る機会は少ない。
岩に貼り付いている「感じ」が俺にとって大きな魅力だ。
黒く湿った岩の割れ目から冷たい空気が漏れ出している。
顔を寄せると、そこだけ渇いた空気が流れ出していた。
そこに目が現れた。
人の目だ。
もろに視線がかち合った。
相手は岩の割れ目の向こう側。
大きく見開かれた誰かの目。
おそらく、俺の目も同じように見開かれ、相手はそれを見ているだろう。
声を出したのは向こうだった。
「何これ・・・」
「これって何だよ」
俺は声も出ない。
下を見ると、まだ2メートルも登っていない。
再び視線を割れ目に戻すと、そこにはまだ目が据えられたままだ。
だが、相手は小さく叫ぶと、落ちた。
向こう側から、指や靴などが岩にこすれ、滑る音が聞こえた。
俺は飛び降りた。
傍目には、落ちたようにしか見えないだろう。
仲間が俺を笑っている。
そりゃそうだ。
落ちるような岩ではない。
岩の割れ目から流れ出ていた空気を、思った。
渇いたあの空気は、沢の空気ではなかった。
もっと、地面から高く離れた場所の空気だった。
向こう側の彼は、どれくらい落ちたのだろう。