昭和5年生まれの父親の話。
わかりやすいように自己視点で書きますが、脚色はありません。
父は地方の山村に生まれ、半農半猟の青年時代を送った。
猟の腕は兄について回りながら鍛えたのもあり、30歳前には「目抜き」とあだ名されるほどだったと言う。
猟はいつも単独で、紀州犬を一頭のみ連れて猪を狙う「留め狩り」というスタイル。
犬が先に猪を追い出して、逃げぬよう、押されぬように「留めて」いるところに人が追いついて、猪を狙うというもの。
本来、昼間に行う猟だが父はそれを夜行うのが好きで、しかし周りの者には「夜に猟やら、○○ちゃんしかようできん」などと、蔑まれるような、畏れられるような行為だったらしい。
事実、夜のほうが獲物はよく出ているので、猟果は高い。
が、本来夜に山に入るのは暗黙の了解として禁忌とされている。
ましてや、猟など・・・・若気の至りというのもあったのだろうか。
その日も、父は一人で山に入っていった。
猟師が歩く距離は想像を絶する。
小一時間も歩けば、尾根を越えて奥山の谷に差し掛かる。
その日は遠出のつもりだったらしい。
ただ、出猟前にほんのすこし、異常があった。
犬が離れないのだ。
本来、猟犬は一人で獣跡をつけてどんどん奥に入っていく。
これは私も何度も父と同行しているので知っているのだが、そもそもそうでないと猟にならない。
だいたい、2~300mほど先を犬が行くのが当たり前である。
そんなに奥まで分け入っているのに犬がつけないというのは私も見たことが無い。
その日は、犬が入らなかったそうだ。
父は、単に獲物の跡が無いからだと考え、どんどん奥に入っていった。
しかし、奥に行くほど犬は足元に絡みつくように引っ付いてくる。
こんなことがあるもんか?と父が考えていたそのとき、突然後ろから声がした。
「おうーい、○○ちゃんよーい」
父に聞くと、ほんの10mぐらい後ろから聞こえたそうだ。
父は、誰か後をついてきた友人かと思い、返事をした。
「おう、来たんかー!どうかいのー!」
しかし返事は無い。
静寂が続く。
空耳かとも思ったが、はっきりしすぎていた。
はっきり、10m後ろから声が聞こえた。
しかし、凝視しても闇が広がるのみ。
不思議に思いつつ、歩を進めようとしたとき、今度はほんの5m後ろで声がした。
「うおーう、○○ちゃんよー!」
聞き間違えでは無い。
はっきりと、聞こえた。
しかし、今日ここにいることは誰にも言っていない・・・。
暗闇で、後ろからなぜ自分とわかる?
こんな人気も無い深山で?
『ばけものは2度聞いてくる。2度答えると、命は無い』という年寄りの言葉を思い出した。
今度は返事をせず、振り向いた。
やはり何もいない。
藪の中?
犬は足元で尻尾まで丸めている。
猟犬が?
熊にも怯えぬ猟犬が!?
さすがに総毛だった。
普通なら、ここで崩れ落ちるか恐怖のあまりどうにかなるかだろうが、父はどっかと座り込んだ。
震えながらもタバコを点し、一息ついたのち、突然足元で丸くなっていた猟犬を、声のした藪に投げ込んで銃をとった。
「ギャー!!!グゲーッ」
獣の声と同時に、飛び出た塊に照準を合わせ、ターンと打ち抜く。
大きな雄狐だった・・・。
犬もわれに返り。
死んだ狐に歯を立てている。
父は未だに現役で、夜山に入っている。
私も同行する。
たまに、へんなものも見ることがあるが、これほどの事は未だにない。