今思い返せば、彼女の足首を見つめはじめたのは、ゴールデンウイークが明けてからのことだった。
彼女は、同じ美大の違う科の学生。
月曜の4限、いつも私の斜め前に座っていた。
名も知らない人だった。
特別、その人に気になる要素があるわけでなく、気が付いたらなんとなく彼女の足首に目がいってるのだ。
そんな自分の奇行の意味を知ったのは、大分後になってからだった。
梅雨も明けた6月の終わりの爽やかな月曜日。
「S!」
昼休みの大学のカフェテリアで、名前を呼ばれた。
形のいい綺麗な手がまず目について、顔に視線を上げる。
Hだった。
「あれ?珍しいね、弁当?」
そう言いながら、彼は、定食を乗せたトレーを器用に片手でテーブルに置く。
音一つたてないその動作に感心しながらも、私はため息をついた。
その理由は、他でもない彼の片腕に抱えられたものにあった。
「それ、なに?」
彼は、よくぞ聞いてくれたといわんばかりに、それをテーブルに置く。
透明なケースに入った人型だった。
ケースにピタリと張り付くようにして、こちらをじっと見ている。
目は空洞のようで、真っ暗な闇が広がっている。
子供だろうか。
色は、干からびたようなまだらな茶色をしている。
とても趣味のいいと言えるものではない。
まして、食卓の上に置いていていいものでもない。
私は、怪訝な顔をして箸を置いた。
「何それ。何で出来てんの?」
石膏でも粘土でもなさそうな独特の質感である。
「石鹸だよ。着色料を混ぜて作った石鹸を掘ったんだ」
ふぅん。
珍しいこともあるものだ。
Hが、授業外で何かを制作しているのを初めて見る。
いや、授業すらもまともに出てないのが本当だが・・・。
しかし、私が今まで見た数少ない彼の作品は、悔しいほど美しく、綿密で、情緒さえ感じさせるものだった。
「なんか、Hにしては、珍しい感じの作品だね・・・」
茶を濁すような口ぶりで、彼の反応をうかがい見た。
彼は、私とは対照的に愉快そうな笑みを浮かべながら答える。
「正直に言ってよ」
私は、もう一度その人型を見る。
一瞬目があった気がした。
真っ暗闇の目に捕われそうな、得体の知れない気持ち悪さがある。
それは、なんとなく知っているような感覚だった。
「気持ち悪い」
彼は、私の返答を聞き、少し目を伏せ、ニィーっと歯を見せて笑った。
「実は、これ。いわくつきなのね。」
「まあ、作った僕が言うのもおかしな話だけど。」
それから、彼は唄うように話し出した。
彼・・・Hは、ひょんなことから取り憑かれやすい体質になってしまった人だ。
そして、オカルト大好き人間になってしまったのである。
オカルトマニアが祟って、霊媒体質になるというのは聞いたことがあるが、霊媒体質になったからオカルトマニアになったという、変人だ。
そんな彼と一緒にいる私は、よく『そういった』話を聞かされる。
それだけならいいのだが、私を巻き込もうとすることがあるので、たまにうんざりするのだ。
今回も、そんな話だったら堪らない・・・と思いつつ、聞き入ってしまう私も、すっかり侵食されてしまったと思う。
Hの話はこうだった。
5月の終わり、同じ大学の女の子が、彼に話しかけてきたのが事の始まり。
なんでも、体が重いのだそう。
病院に行っても、異常は見当たらない。
しかし、日に日に体重も減るわ、夜はうなされるわ、奇妙な夢を見るわで、ただ事ではないと感じ始めたらしい。
そこで、もしかしたら、霊的なものかもしれないと考えはじめ、Hに相談したのだそうだ。
心当たりがあったらしい。(それについてはここでは触れられません)
Hは、顔見知りの霊媒師のAさんを紹介し、無事浄霊したとのこと。
「そんで、これだよ。」と、ツンツンと人型の入ったケースをつっつく。
「Aさんに、彼女に憑いていたものの特徴を聞いて、一緒に作った。」
私は、空いた口が塞がらない。
なんて、悪趣味なことをするのだろう!Hはともかく、Aさんまで・・・。
呆れながら、私は聞いた。
「そんなことしてどうすんの?」
H「どうするって・・・・・・。Sのためだよ。」
予想外のその答えに、私は空いた口を更にあんぐりさせてしまう。
Hが、更に言葉を被せようと口を開く。
その瞬間、予鈴がなった。
私は、半分も食べていない弁当をそそくさと片付けると、席をたった。
Hは、不満そうな顔で私を見送る。
冗談じゃないぜ!「つづき」なんて聞きたくもない。
カフェを出る間際に振り返ると、Hは行儀よく手をテーブルで組みながら、にやにやと気味悪く笑っていた。
3限の講義は、運悪くクソ面白くもない色彩の理論だった。
Hの話が気になってしょうがない。
講義に集中しようとしても、あまりの面白味のなさにそれも出来ない。
チラチラと、あの人型が頭によぎる。
あの目のない目で、私をじっと見ている。
そして、何かを掴もうともがくのだ。
ハッとする。
何故だ?何故、あの人型が「何かを掴もうとする」のだ?Hが見せたあの人型は、ケースにピタリと張り付いていたのに、私の中のあの人型は何かを掴もうとしている。
初めて見たはずのあの人型が、私の知らない動きをする。
いや、本当に「知らない」のだろうか?実は、Hにあの人型を見せられたとき、何か違和感を感じていたのだ。
あるべき姿とは違うような感じがしたのだ。
しかし、今、私の中で何かを掴もうするあの人型には、「しっくり」くるのだ。
まるで、いつも見知った何かを見るように。
チャイムが鳴る。
いつの間にか講義は終わっており、教室には人もまばらだった。
我に返った私は、額の嫌な汗に気付いて、苦笑いした。
Hの言葉を真に受けることはない。
気にしすぎて、自己暗示に陥った結果、変な考えに走ってしまった。
やれやれ、これではHの思うつぼではないか。
大丈夫。
あんなのは、ただの妄想に過ぎないだろう。
4限、見たくもない顔に隣の席を陣取られる。
聞く耳を持たないぞ!と構えていたが、Hは、なんでもなさそうな顔して鉛筆を削っている。
「僕、Bじゃないと文字うまく書けない・・・」とか、どうでもいい情報をぶつぶつ発しながら、カッターと格闘している。
「ふーん。ちなみに私は2B派だけど。」
「そお?」って、あれ・・・。
さっきの話の続きいいのかな?
呆気にとられたままHの手元を見ていると、講義が始まった。
ぼーっとしているうちに、時間は過ぎていく。
「ねえ。」ふと、Hが話しかけてきた。
「あの子、見て。」
Hが指差す先に、女の子がいる。
「あの子なんだよねえ、お祓いしたの。」
Hの横顔が囁く。
ああ・・・・・・。
さっきの話の子か。
話がまたお昼に戻りそうだったので、制止したかったが講義中だ。
強く、止めに入れない。
眉をひそめるが、Hは気付かないふりで続ける。
「実はね、さっきの話嘘が交じってて。あの子から、話しかけられて相談されたって言ったけど、逆なんだ。僕から、助けを買って出た。最近、なにか変ったことはない?って。」
それはおかしい。
Hはいくら憑かれやすくとも、いくらオカルトマニアでも、全く「見えない」人なのだから。
どうやって、彼女の異変に気付いたのだろう。
「月曜日の4限。この講義で、いつもあの子はあの席に座る。そして、僕たちは決まってこの席に座るよね。」
私は、頷く。
「そしたらいつもさ、Sは気付いたらいつもある一点を見つめてるんだ。」
私は、思い出した。
5月頃、講義中によく周囲の友人に注意されていたことを。
「あの子の足元を凝視してるんだもん、何かと思ったよ。」
ああ。
それがあの子だったのか。
足元ばかり見ていたせいで全体像を把握していなかった。
「最初は、足首フェチなのかあって思ってたんだけど、あまりにも見すぎだし、それを意識してやってる様子もなかった。これはなにかあるなあ、と。Sの無意識は怖いからね。」
そういうことか。
私はすべてを理解した。
「ねえ、やっぱりさっきの人型・・・・」
Hがこちらを覗くように顔を向ける。
私は、俯きながら答える。
「見覚え、あるよ。」
片手で腕をぎゅっと握りしめながら答えた。
意外にも素直に答えた私に、Hはびっくりしているのが雰囲気で分かる。
また、無意識のうちに見てしまっていたのか・・・。
Hは言った。
「Aさん言ってたよ。あいつをあの子の足元から引き剥がすの、大変だったって。」
脳裏で、あの人型が掴んでいる何かが、はっきりと見えてくる。
背筋が寒くなってくる。
「僕が、あの人形を作った理由分かったでしょう。」
とんでもないやつだ。
Hのせいで、私はあいつをはっきりと意識してしまったのだ。
「あれ?怒んないの?」と、つまらなそうに、言うH。
怒るどころか、私はHの方を向くことも出来ず、ひたすら俯く。
なんだかムカつく奴だけど、霊感だけはしっかりしてるから、Hの事を怒るに怒れない・・・。