僕、鍼灸師をしてるんです。
こう言うとなんですけど、鍼灸って、古い、うさんくさい技術だと思われてる方が多いんですよね。
けど、今は国立大学でも鍼灸を専門に学ぶ学科がありまして、僕も筑波大学で4年間勉強しました。
それから、もう10年経つところですが、開業はせず、ある大学病院で理学療法としてやってます。
で、専門誌に論文出したりも。
それがおそらく目に止まったと思うんですけど、3年前の秋に、中国のある医科大学から、研究会で発表してくれないかって、招待されたんです。
ああ、大学名なんかは言わなくてもいいですよね。
いろいろ差し障りがあるかもしれませんから。
費用は渡航費用も、滞在費もすべて向こう持ちで、毎日のように豪華なレセプションがありました。
中国式の乾杯にはまいりましたけど。
それでね、発表が終わった日の晩です。
そのときの晩餐会で、そこの大学の学長から、こんな話をされたんです。
「あなたの技術を見込んで、診断、治療してほしい患者がいる」って。
これね、向こうが本場なのに、変だと思うでしょ。
けど、お灸と漢方薬はともかくとして、鍼に関しては、中国よりも日本のほうがずっと進んでるんです。
ほら、中国から伝わってきた鍼は、日本で特殊な進化をとげまして、江戸時代以前から、日本だと目の不自由な人たちが鍼を打つようになってたでしょう。
手探りで脈をみながら打つので、その過程で技術が進化して、経絡の考え方も、中国よりずっと実用的なものになってるんです。
あと、鍼管っていう、鍼にかぶせて使う管も日本独自の発明です。
でもね、今はそれ、中国でも一般的に使われているんです。
でね、この話を聞いたとき、『ははあ、共産党の要人か、その家族だろう・・・』と思ったんです。
党の幹部はいろんな特権がありますから。
それと、西洋医学では治せない症状なんだろうとも。
ええ、慢性的なアレルギーとか、西洋医学にも限界はあります。
それを補完するのが鍼をふくめた東洋医学ですから。
翌日の8時、ホテルにいるところに迎えが来まして、王さんっていう、大学の学部長の人でした。
駐車場に大きな車が来ていて、運転手が乗ってました。
それで、最初に、その市の中心部にある大型の漢方薬店に行ったんです。
楊さんという店主を紹介され、50代前半くらいの、背の低い人でしたね。
王さんから、「必要なものがあったら、何でもこの店で揃えてください」そう言われたんですが、肝心の病人の情報が何もないでしょ。
向こうからは教えちゃくれないし、聞いてはいけないような雰囲気がありまして。
まあでもね、僕はすぐ日本に戻らなくちゃならないから、継続した治療はどうせできない。
ですから、病気の診断をして、治療の指示を出すだけだと思ってました。
自分の鍼の道具は持ってきてましたので、あと、その店で、必要と思える物をいくつか選んで、また車に戻ったんです。
楊さんも、店を店員に任せて同行しました。
そのときジュラルミンの枠のついた、頑丈そうなケースを持ってきたんです。
大きさは普通のアタッシュケースくらいですが、やや厚みがあり、でも、重そうには見えませんでした。
もう一度整理してお話すると、そのとき車に乗ってたのは、王さん、楊さん、僕、それから一言もしゃべらない運転手の4人です。
ああ、あと、言い忘れてましたけど、僕、大学で学んで、簡単な会話くらいなら中国語できるんです。
それからが長かったです。
車で4時間ほどかかりました。
市内を抜け、郊外も過ぎ、舗装してない道に入って、さらに2時間ほど走りました。
ですから、その村に着いたのは24時を過ぎた頃です。
これはちょっと予想外でした。
市内にある大きな邸宅に向かうとばかり思ってたので。
でね、行った先は、その貧しそうな村の外れ、山に近い場所で、大きなテントがいくつも張られてあり、軍用車が何台も停まってて、肩に銃を担いだ人民軍の兵士が見張りに立ってたんです。
これは何事だろうと思って緊張しましたよ。
まずテントの一つに入って、軍の司令みたいな人と王さんが話し、それから僕に向かって、「お腹空いたでしょうが、急ぎなもので、さっそく患者を見てもらいます」、こう言いました。
テントの中には監視モニターがずらりと並んでましたね。
でね、そっからは歩いて、道の両側に兵士が並ぶ厳重な警戒の中を、山のほうに向かいました。
「ここ、何ですか?」
王さんに小声でそう聞くと、王さんは「・・・遺跡なんです。おそらく漢代の。最近発掘されたばかりで、まだ周辺施設が整ってなくて」
大きな岩の重なりに鉄扉がついてて、僕たちの姿を見て、兵士がデジタルロックを解除しました。
「遺跡!?」
ますますわけがわからないですよね。
そんなとこに何で病人が・・・。
中は洞窟のままで、配線むき出しの照明がたくさんついてました。
あとね、驚くようなものがあったんです。
何だと思いますか?
水槽ですよ。
水族館にでもあるような巨大な水槽が両側に見えてきて、これも急ごしらえのものに思えましたが、中に、数mもある魚が何匹も泳いでたんです。
僕は魚のことよくわからないですが、チョウザメじゃないかと思いました。
ええ、あのキャビアをとる。
やがて洞窟は突きあたりになり、小さな部屋がありました。
そこで僕は施術着に着替え、全員が消毒をし、また頑丈な鉄扉を開けると、そこが病室?だったんです。
壁は洞窟のままでしたが、かなりの広さがあり、縦に長いベッドがありました。
8mくらいでしたか。
ベッドの上は、仕切りのカーテンで3つに分けられ、入ってきた場所からは、真ん中の部分が見えました。
そしてそこに、真っ白な腹?いや、胴体?
どう表現すればいいかわからないものがあったんです。
それは呼吸しているようで、ゆっくり上下に動いてました。
胴回りは人間よりかなり大きい。
「これが?!」
「ええ、患者です。お願いします。西洋医学では無理ですから」
とにかく、まず、その2mほどの胴体部分を触診しました。
肌は人間と似ていて、体温もありましたが、ところどころにギザギザの・・・カエデの形をした鱗のようなものがあったんです。
内臓も人間に似ていると思えました。
けど、大きくて長い。
「CT画像なんかはありますか?」王さんに聞くと、王さんは首を振り、「放射線関係はまったくダメです。せっかく復活させたのに、死んでしまう」
復活?これは、この遺跡の被葬者なのか?
そこからは、全神経を指先に集中させ、経絡を探っていったんです。
人間の血圧にあたるものが弱く、血液の循環が悪いのがわかりました。
意を決して、循環器を回復させるための鍼を打っていきました。
7本目で、下半身との境のカーテンにいきあたり、僕は王さんを見て、「めくってもいいですか?」といいました。
王さんがうなずき、たくしあげると、やはり全体が真っ白な、魚の尾部があったんです。
さっき見たチョウザメによく似た・・・。
驚いてもいられず、鍼を打ち進めていきました。
14本目の鍼を打ったとき、ビタン!と、尾が強く跳ねました。
もしあたったら、ただですまないくらいの力でした。
それはベッドからどさっと床に落ち、ビン、ビンと何度も跳ね上がりました。
王さんが壁に駆けよって非常ボタンのようなものを押し、警告音が響きました。
床の上のものはのたうち、上半身を持ち上げ、そのときに髪の長い女の顔が見えました。
女はするすると床を這い、楊さんが抱えていたケースにがっと噛みつき・・・そこで、僕はなだれ込んできた兵士に部屋の外に連れ出されたんです。
やがて、遺跡の外で王さんと合流しました。
「どうなったんですか?」
「鎮静剤を撃ちました。おそらく大丈夫でしょう。いや、ご迷惑をおかけしました」
テントの中で王さんや他の医師を交えて、僕が診たことを話し、今後の治療についての所感を述べました。
みな熱心にメモをとって聞いてましたよ。
それから、車に乗ってホテルのある市に戻ったんです。
ここからは後日談です。
王さんは、僕の日本の口座に3000万円振り込むと言いました。
口止めのようなことはなかったです。
それと、真っ白な鱗を一枚いただいたんです。
王さんは、「これは到底お金には変えられない、いわゆる中国の宝物です」そう言ってましたね。
その後、遺跡の中のものがどうなったかわかりません。
・・・僕の勘違いなんでしょうが、中国の要人の夫人の画像をテレビで見て、あの遺跡にいたチョウザメ女に似ているように思いました。
それから、去年、所用で中国を再訪したんです。
あの遺跡のある場所とはずいぶん離れたところです。
空港から市街に入ると、道に何人も物乞いがいて、その人たちは道端に布を敷いて寝ていて、手足のない人が多かったんですが、その中に、楊さんらしき人がいたんです、あの薬物商の。
ただ、その物乞いは両目がつぶれ、両手両足がなく、小さな木の車輪がついた箱のようなものに乗せられていたので、これも違うかもしれません。
もちろん、声はかけませんでしたよ。