昭和30年台後半頃だな。
俺が小学生の時分。
その頃はこうまで暑い夏じゃなかった気がするが、今とは違ってエアコンもなかったから、夏休み中に暑い日が続くと「氷穴に行こう」ってじいさまに願ってな。
これは1日がかりで、じいさまのその日の畑仕事をつぶしてしまうことになるんで、なかなかうんとは言ってくれなかった。
だから行けたのは、ひと夏に一度あったかどうか。
翌朝は握り飯を持ち、水筒に水を入れて支度をし早くに家を出るんだ。
当時の「早く」ってのは今とは違ってほんとうに早くて、夏場なら午前6時前だよ。
それから5時間ほどかけて、ふた山超えた山の奥まで分け入る。
そこまでは獣道程度だが一本道がついてて、迷う心配はなかった。
ゆっくり歩いて11時前には岩山の洞穴地帯に入る。
そこらは鍾乳穴と呼ばれる洞窟がたくさんあってな、ごく浅いのがほとんどだったが、深いのも何本かはあった。
むろんただの鍾乳穴でも中は涼しいんだが、氷穴はそういうのとはまったく違ってたんだ。
入り口は狭く大人2人が並んで入れる程度。
上に太い注連縄が渡してあった。
ここは鍵などはついておらず、まあ村の主だった者なら誰でも入ることはできた。
むろん照明はないから懐中電灯が必要だ。
20mほど同じ幅の洞穴を進んでいくと、ぽっかりとホール状の場所に出る。
そうだな学校の教室4つ分ほどの広さで、百畳敷と呼ぶ人もいたな。
中は涼しいなんてもんじゃない。
温度計を持って入ったことはないが、気温は零下だったろう。
それは普通じゃありえないさ。
たいがいのところは洞内の気温は15度内外。
そこだけは特別なんだ。
だから氷穴って呼ばれた。
なにせ、そこのホールの壁には厚い氷が張ってたからな。
なぜその洞穴だけ異常に温度が低いのかって?
それをこれからだんだんに説明していくんだよ。
そんなに慌てなさんな。
なにせほら、来るときは真夏の格好だったろう。
その頃の小学生なら定番のランニングシャツに半ズボンだ。
だから道中暑かったのが、中に5分もいると、嘘みてえに寒くなってくる。
俺が震えだすと、じいさまは笑って「外をひとっ走りしてこい」って言うんだ。
洞穴の外はいわゆるガレ場で、大小様々の角ばった石がごろごろしている。
そこで石投げをしたり、珍しい石を集めたりしているうちに体温が上がって、また洞穴に入る、それを何度も繰り返すわけだ。
今ならサウナに出たり入ったりしてるようなもんかな。
違うか?
じいさまは、たいがいは外に出てて、煙草をふかしてることが多かったな。
あまり中にいるのが好きじゃないみたいだった。
ま、あの冷たさじゃ年寄りの関節にはよくないだろうが、それだけじゃない。
おびえているような感じがした。
怖がってるのを俺に知られまいと隠しているような態度。
まあこれは、今になってそう思うんだがね。
村の者を見かけたことはないな。
山道を5時間だから、もちろんちょっくらとは来れるとこじゃない。
しかしそれだけでもない。
なんというか、そこらの地域ではあまり好まれない場所だったんだ。
俺とじいさまが行けたのも、村の中ではかなりの山持ちだったせいがあるんだろう。
ああ、山持ちってのは山林の所有権のことだ。
農地開放前は、小作をたくさん抱えた豪農だったんだよ。
でな、氷穴の話に戻るが、さっきのホールのところで行き止まりというわけじゃない。
また細くなった奥へと通ずる道があって、そこは鉄柵で塞がれてた。
一本一本が子どもの腕ほどもある鉄棒が岩に埋め込まれててね。
これはそんなに古いもんじゃない。
戦争中に旧日本軍が造ったもんだよ。
むろん鉄柵も凍りついてて、そこに巨大な錠前がついてたんだ。
当時・・・鍵は村議会で管理してたが、その奥に入ることは10年に1度ほどしかなかったはずだ。
入ったことがあるかって?
ああ、1度だけある。
その話をこれからするんだよ。
氷穴の奥に入るのは、大きな地震があった後の確認のためだ。
震度にすればだいたい4か5以上のとき、村の青年団に招集がかかって、みなで氷穴の奥に入るんだよ。
俺が青年団のとき、つまり結婚前ってことだが、秋口に大きめの地震があって、そんときに皆と一緒に入った。
その頃になると林道が通ってて、岩山の麓までは車で行くことができるようになってたから、山登りは2時間くらいだった。
青年団は12人で、村長が団長だったな。
奥に何があるか、俺は知らなかったが知ってるやつもいた。
でもこれは、語るな聞くなの、一種の禁忌になってて。
俺は22歳だったが、団員の中には、8年前の地震の後に氷穴に入った経験者もいたはずだよ。
完全防寒した12名の団員、村長と村会議員・・・村長は高齢だったから中には入らず、
一番若手の議員が鍵をあずかり、松明を焚き、2列になって注連縄をくぐった。
すぐにホールに出て、錠に魔法瓶の湯をかけて溶かし、鍵を差し込んだ。
でもな、扉は凍りついているから、みなでノミを使って氷を落とさなきゃならなかった。
これだけで小一時間かかった。
そっから先は1列でしか進めない氷の通路で、高さも掲げた松明がつっかえるくらい。曲がりくねってはいたが、分岐はなく一本道だった。
でな、その氷穴の凍りついた壁だが、反射する松明の明かりが全体に緑っぽくなってきた。
分厚い氷の奥が金属質に感じられた。
15分ほど進むと、またホールに出た。
今度は小学校のグランドほどの広さがあった。
そこは松明がなくても薄ら明るかった。
みなの吐く息が緑色になって見えたよ。
入ったとき、団長代理の村会議員が「温度は上がってないぞ」と言った。
中央に複雑な形のチューブの束のようなものがあって、これも凍りついている。
冷蔵庫の氷のように空気が入って白くなってるわけじゃなく、ガラスのように透明で、下になっているものがよく見えたな。
一本が人間の胴ほどもあるチューブがうねるように絡み合っていて、それに囲まれるように、金属光沢の四角い台が氷の中にあった。
その上に、3mほどの・・・全体として白い繭に見えるものがあり、横に人が立っていた。
むろんどっちも氷に覆われてて、つまり生きた人じゃない。
その初老に見える人物は、旧日本軍の軍服を着て、軍刀を繭に突き立てた状態で凍りついていたんだ。
「整列!」
議員が声をふりしぼり、俺らは2列横隊になった。
「西村大佐殿に敬礼!」
掛け声に合わせ、その凍りついた人に向かって皆が敬礼をした。
後で聞いたことだが、この人は戦争中に村の高等小学校に軍事教練の訓導に来ていた、退役した陸軍大佐ということだった。
なぜ立ったまま凍りつき、この氷穴で死んでいるのかは、今になってもよくわからない。
それと大佐殿が突き立てている凍った繭・・・これは白色だが濃淡があって、繭の中に人型のものがいるようにも見えた。
けどよくわからない。
もし人なら、2m50cm以上の身長ってことになる。
それはありえないよな。
全員で四方の壁を見て回った。
地震による崩落がないかどうかだ。
確認する度に、議員が「異常なし」と大声をあげた。
最後に、議員と青年団の副団長がチューブの山を滑りながら苦労して登り、文字どおり立ち往生している大佐殿の凍った軍刀に手をかけ、力を入れて揺り動かした。
「ゆるみなし、異常なし!」
議員が叫んだ。
ま、これで終わりだ。
あとはもう一度敬礼をして、みなで来た道を引き返すだけだった。
え?繭とその中のものは何かって?
聞かないでくれ。
俺にはわからないよ。
ただあの洞穴を凍りつかせている冷気は、チューブの塊から出ているんだと思った。
つまり巨大な冷凍庫ってことだな。
この後、27歳のときに俺は結婚するんで村を出たんだ。
両親もよそへ引っ越した。
過疎化が進んで人口が半減しているが、青年団はまだあるみたいだ。
で、最初に言わなかったが、この氷穴がある村は東北の某県なんだよ。
だからあの大震災の後にも、氷穴に入ったらしい。
村は山奥だから津波の被害はなかったし、地震の揺れもそこまで大きくはなかった。
こっからは昔の同級生なんかから、切れ切れに情報を集めたもんだから、信憑性はあんたらのほうで判断してくれ。
どうやら氷穴の冷却装置?が止まってたらしいんだよ。
地震の影響なのか、それとも機械の寿命かはわからんけど。
それで、氷穴の中で青年団のやつらが何人か死んだみたいなんだ。
表向きは震災の犠牲者ってことになったらしい。
噂では、氷穴は自衛隊のヘリで重機を空輸するという大掛かりなことをして、入り口を塞いで、さらに周囲をコンクリで固めたっていうことなんだよ。
そのあたり一体は立入禁止になって、今も解除されてないらしい。
原発事故の陰に隠れて、この話は聞こえてこなかっただろうが、わけがわからねえよな。
戦時中にあそこでいったい何が起きたんだろう?
あの大佐殿は何に刀を突き立てたんだ?