私の祖母はいわゆる”みえる人”であったようで、おばあちゃん子だった私は様々な怖い話や不思議な話を聞かされて育ちました。
そんな祖母から聞いた話。
祖母は花が好きな人でした。
花道もフラワーアレンジメントも習ったことはありませんでしたが、センスはよかったのでしょう。
よく玄関に花を飾ってくれていましたが、それは道端の野花であろうと、花瓶がわりに栄養ドリンクの空き瓶が使われていようと、思わず目を止めてしまう魅力がありました。
そんな祖母には花にまつわる不思議な話もいくつかあり、これはそのひとつです。
実家の庭には、椿の木が一本植えられています。
祖父母が結婚した時に、親戚がお祝いにとくれたものだそうです。
祖父母が一緒になったときからあるそ木ですので、それなりの年月を経てはいたのですが、庭仕事が趣味の祖父がマメに手入れをするおかげで、毎年真紅の大きな花をたくさん咲かせていました。
私はよく葉っぱをママゴトの道具にしたり丸めて笛にしたり、花が咲けばその蜜をおやつ代わりにしていました。
幾重にも重なった花びらをかき分けて指ですくい取る椿の蜜は、蜂蜜よりも少しさらりとした、爽やかな甘さをしていました。
椿が毎年綺麗に咲くよう手入れをする祖父、咲いた花をより見栄えよく飾り付ける祖母。
この木が我が家にやって来た経緯もあり、二人にとっても椿の木は特別なもののようでした。
さて。
祖父は心臓を患っており、私が高校生の時に亡くなりました。
お世辞にも仲睦まじい夫婦とは言えない祖父と祖母でしたが、50年以上共に過ごした伴侶を亡くしたことは、祖母にとって大きな打撃だったようです。
塞ぎ込みがちになり外出することも減り、玄関に花を飾ることもなくなってしまいました。
ところが、祖父が亡くなって半年ほどした、ある冬の日のことです。
祖母:「◯◯ちゃん、見ちょごれ!ほらほら」
登校前の私を、何やら興奮した祖母が呼び止めました。
私:「え、何なん?」
祖母:「ほら!」
手を引かれた先は、庭の隅のあの椿の元でした。
日に日に蕾が大きくなってきているのは知っていましたが、どうやら今朝、最初の一輪が咲いたようです。
祖母:「色が変わっちょろ?」
祖母が嬉しそうに言うとおり、もともと紅色一色だった椿の花は、赤と白の混じった絞り咲きに変わっていました。
祖母:「これな、じいちゃんやと思うんやけど、どう思う?」
祖母は興奮冷めやらぬ様子でした。
なんでも祖母によると、祖父は絞り咲きの椿が好きだったようで、生前はよく「絞り咲きがでらんかなぁ」と、我が家の椿を見ながらため息をついていたというのです。
祖母は、亡き祖父の意思が椿の花に宿ったのだろう、と喜んでいるのでした。
『でもさ、椿って咲き分けとか枝分かれとか、よくあるんやない?』
喉元まで出かかったそんな言葉を、私はゴクンと飲み込みました。
久しぶりに見た祖母の明るい顔に、いらぬ一言で影を落とす必要はないからです。
それに、”みえる人”である祖母が言うからには、本当にそのとおりなのかもしれない、とも思いました。
私:「おじいちゃん、好きな色に変えて満足しよんのかな」
祖母:「じゃあ、ばあちゃんが死んだら、この椿は全部ピンク色にしちゃろ。ばあちゃんピンク色が好きやけん。◯◯ちゃん、覚えちょってな」
私:「いいけど、せっかくおじいちゃんが変えた椿の色、また変えてしまったらケンカになるんやない?」
笑いながらそんな話をして、その日は危うく遅刻するところでした。
紅色一色だった椿は、その年から全ての花が絞り模様に変わり、それは次の年もその次の年も変わりませんでした。
椿の花の色が再び変わったのは、祖母が亡くなった次の年でした。
祖母は椿の花盛りの時期に亡くなったのですが、葬儀を終え家に帰ってきた私たち家族は驚きました。
庭の椿の花が、一輪残らず地に落ちていたのです。
それは咲き終わった花だけではなく、開きかけのものも、まだ色づいてもいない硬い蕾も同様でした。
木の周りは落ちた椿の花で、まるで赤と白の絨毯を敷いたようでした。
「ばーちゃんを送りよんみたいやな」
ポツリと呟いた次兄に、私も頷きました。
そしてその次の年から、椿は祖母が言っていたとおり、ピンク色の花を咲かせるようになったのです。
それは単に、自然界ではよくある変化なのかもしれません。
でも私は、椿の木の隣にはいつも祖父母がいる気がしてなりません。