昭和の教育者によくいたパターン

カテゴリー「日常に潜む恐怖」

同窓会のお知らせで当時のことを思い出したので厄落としにきました。

小学2年の頃の担任(中年♀)が今思うとかなりDQNだった。
低学年相手に無理難題、運動会や発表会の前は朝の7時に登校させ、放課後は5時まで居残りが当たり前。
給食は食べ終わるまで放課後になろうと絶対に片付けさせてくれないのがデフォ。

表に式、裏に答えが載ってる暗記カードが当時あったんだけど、○分以内に式と解答をカード全部読み上げる・・・という課題が授業前の朝の会であり、うちのクラスだけ全員でぶつぶつ式を読む異様な光景が日常。

担任がストップウオッチで時間を測りストップをかける前に全部読み終わった子は座り、出来ない子は延々立ちんぼ。

ストップの後出来なくて立ってる子全員に「どうしてできないの?」と聞く。
何を答えても「練習が足りないのよ」と高圧的にしかられる。

大人になった今はそこそこ読んだら頃合いを見計らって素知らぬ顔で座ればいいのになあ、と思うんだけど当時はそんなに思いつきもしなかったし、全員必死に読んでた記憶がある。
その担任は恐怖で児童を縛ってたからマインドコントロールを受けてるような心理状況だったんだと思う。

忘れ物をしても同じ。
授業の前に自主申告必須、でも言ったところで授業中にやっぱり立たされて「どうして忘れたの?!」と聞かれ、うっかりしてました、忙しくて、と答えれば「何回でも確認しろ!」「小学生ごときが忙しいなんて甘え!」と吊し上げ。

学校には公衆電話があり、忘れ物はテレフォンカードで家に連絡して届けてもらうことも黙認されてたんだけど、私のクラスだけは例外。
担任じきじきに使用禁止令が出され、電話がバレると忘れ物をした時以上に手ひどく責められる。

上履きを忘れたらそれ用の貸し出しスリッパがあるのに使用禁止。
トイレは靴下だけでいかされた。

学校からの連絡(例えば図工に必要な物だとか)を児童が書き留める専用のノートがあるのに書くのを絶対に許さず、書くな!覚えろ!口頭でいえ!それを忘れて後日持ってこなければ待っているのは晒し者扱い。

これらに例外はなく誰でもやられてたんだけど、お気に入りの子はそこまで厳しい追及を受けず、担任が毎月発行している学級通信にも多く名前が載せられる。(お気に入りはやんちゃな男の子が多かった)

小学生の頃は我ながらかなりクソ餓鬼だったんだけど、なんとか空気を読み登校前に吐くほど大嫌いな担任のご機嫌をとり、好きそうなエピソードを無意識にねつ造してたので学級通信に詩や作文をよく掲載されてた。

成長してから母に学級通信のせいか他の保護者から私子のようなお気に入りになるにはどうしたらいいのかと相談まで受けたと言われた。

保護者達は何度も苦情を入れ、水面下では校長まで交えて話し合いをしていたらしいけれど、結局何の対策も取られず1年担任は変わらなかったし、クラスの方針が変わることもなかった。
(だからこそ子どもがいびられないようお気に入りにさせたくて他のお母さんは聞いたらしい。)

小学校は2年ごとにクラス編成が変わる。
3年生でクラスが変わった際に、その教師は1年生の担任になった。
高学年であればクラスが団結して反抗するだろうから、口答えのできない低学年ばかり受け持っているのだと思うし、小学生の頃でも、自分よりも幼い下級生が担任の餌食になると思うと嫌な気持ちになった。

さらに後味が悪いのが3年のクラス。
うちの1つが3分の2が元DQN担任クラスという謎の編成で、私は他クラスだったけど、その謎編成のクラスは年度の半ばで学級崩壊した。

担任は前年まで1年生を受け持ってた中年の女性。
叱るときは叱り、それ以外の時は比較的自由にというスタンスだったんだけど、前の年が厳しすぎた反動だったのかなと思う。

授業中にテレビの音が聞こえてきて、課外活動の帰りに廊下で先生が泣いてたのを見たのは今でも覚えてる。
そのうち先生は来なくなり、保護者が毎日授業参観。
(授業は副担任)それでも完全には収拾がつかなかったクラスに宛がわれた
担任は当時の副担任ではなく、あのDQN教師だった(1年生は副担が交代で担当)のが胸糞。当時のトラウマでみんな震えあがってたよ。

翌年クラスの編成は変わらなかったけれど、厳しくもきちんとした担任がついたことでそのクラスも完全に立ち直ってたものだから学校側の対応があり得ないなと。

その年DQN教師は異動したけど、風の噂で優秀な女子生徒をいびり倒して不登校にしたと、中学の時に塾の先生に聞いた。
本当かは知らない。

ブログランキング参加中!

鵺速では、以下のブログランキングに参加しています。

当サイトを気に入って頂けたり、体験談を読んでビビった時にポチってもらえるとサイト更新の励みになります!