俺が子どもの頃に祖父に聞いたものなんでずいぶん古い話。
祖父が子供の頃は、夏になるとしじゅう川に入って遊んでいたという。
もちろん学校にプールがあるわけでもなく、今のように川の水が汚れているわけでもない。
しかも祖父が住んでいた村は山間にあり、流れる川は渓流で水はひじょうに澄んでいて冷たく、さかのぼっていくとちょっとした滝や淵もあり、男の子供らは休み中の暑い盛りの午後には毎日のように川に入って過ごしていたのだそうだ。
いじめと書くと、昨今、報道で話題になる陰湿なものを思い浮かべる人が多いと思うが、昔はいじめなどはなかったかというと、そうではなく、祖父の話では昔のほうが今よりずっと子ども同士の間での力関係がはっきりしており、それは腕力もそうだが、せまい村の中での親の力関係の影響も大きかったんだそうだ。
まだ小作と地主、本家と分家などの身分差のあった頃だから、そういうものかもしれない。
立場の弱い子どもは、同じ年、また年が上でも、いわゆるガキ大将とはけっして対等の立場にはなれず、奴隷のようなしうちを受けることもあったそうだ。
その日は、昼過ぎから仲間7人で1kmばかり山に入ったところにある淵にでかけた。
そこは水虎(祖父の地方では河童のこと)淵といって、夏でもぞくっとするほど水が冷たく、また子どもでは潜っても底が見えないほどの深さがあり、湧水の関係からか水中には複雑な流れがあって、泳ぐのを禁じられていた場所だった。
実際、何年かおきに村の子どもが実際に水死していたという。
そこに次々に服を脱いで飛び込んでいったんだが、今のようにボールなどの遊び物があるわけではなく、小一時間もすると唇が紫になって泳ぐのも飽きてきた。
それでガキ大将が先頭になって、一人の子どもをからかい始めた。
その子は祖父と同じ年だったが、家は田もなく、母親だけしかおらず、手間賃稼ぎのようなことで暮らしをたてていた。
だから分校にもめったに登校してこず普段は遊ぶこともないんだが、その日はたまたま会った仲間の一人がさそいかけるとにこにこしてついてきたという。
その子に対して、ガキ大将が水虎様が憑いている、と言い出した。
その子が水の中でそばに来ると、手で水をかけたりみんなして逃げまわった。
祖父も潜ってその子の足をひぱったりしたというが、そのときにはふざけているつもりしかなかったそうだ。
ところが無言で追いかけてきたその子の栄養状態の悪い脇腹のあたりが、水中でどういう光の加減からかスイカのような緑と黒のまだら模様に見えた。
それで怖くなって河原に上がった。
他の子どもも次々河原に上がって、ガキ大将の号令でその子に石を投げ始めた。
もちろん当たるように投げたわけじゃない。
だけど誰かの投げた石がその子の水から出ていた額に当たって、血が出るのが見えたという。
さすがにやりすぎたと思って黙っていると、その子はとぼとぼと淵から上がってきて、何も言わずに脱いでいた服を抱えて山の奥のほうに入っていったそうだ。
残った子どもらは気まずくなって、そのまま村まで戻って解散した。
夜になって、その子の母親が息子が家に戻らないと駐在に訴え出た。
夏場だったこともあって、その夜には青年団が出て捜索を始めた。
次の日の朝早くガキ大将が家にきて俺を誘い出し、昨日あったことは大人に言うなときつく口止めした。
6人全部の家を回って歩いたんだと思ったという。
その日の午後になって、その子が水虎淵に浮いているのを青年団が発見した。
その子は仰向けに浮いていたようだが、祖父の地方では仰向けならばただの水死、うつ伏せになっていた場合は水虎様に取られたとされたらしい。
水虎に取られた者は成仏できないとも言われていたそうだが、それでなぐさめになるわけでもない。
そうとう水を飲んだらしく、腹がだぶだぶにふくれて青ざめ、蛙のような姿になっていたという。
そのとき一緒にいた子供らには、ガキ大将の口止めもあって、その子が死んだことについて追求されることはなかったそうだ。
・・・夏が終わり秋になるあたりに、祖父を含めたその6人の子どもらは次々に自家中毒になった。
食い物で心当たりはなかったという。
とくにガキ大将はひどくやられて何日も学校を休んだ。
裕福な地主だった親が、町から医者を呼んだがいっこうによくならない。
噂では毎夜うなされて「水虎がくる、水虎がくる」とうわ言が絶えなかったそうだが、やっと回復のきざしが見えてきたとき、家の者がちょっと目を離したすきに姿が見えなくなった。
やはり村の若い者が総出で探したが、水虎淵にうつ伏せになって沈んでいるのが見つかった。
なぜか河原に、お供えでもするようによく熟れた野生の果物が積み上げられていたそうだ。