このスレでよく寺の和尚や神主に霊感や祓う力があるかどうか話題になるんで、そのことについて俺が寺生まれwで住職をしている友人から聞いた話を書いてみる。
俺の生まれた地域は田舎だけど町で一番大きな友人の家の寺はけっこう敷地が広くて立派な造りをしてる。
ただ宗派の総本山から住職が派遣されてくるほどの格式ではなくて、明治以降は長男が代々世襲で住職を務めている。
友人は小学校前くらいの時分によく祖父である大(おお)和尚に連れられて墓域の片付けと掃除に行ったそうだ。
ここらでは寺の住職に定年はないので基本的に死ぬまで僧職にあるけど、大和尚はその頃で七十歳前後だったはずで、お祖母さんはもう亡くなっていた。
友人の父は四十代だったが、ちょっと離れた市の同じ宗派の寺で修行していた。
掃除についていくとカラスが集まっている。
これはお供え物を持って帰らない人がいるんでそれを狙ってくるんだけど、そのカラスの中にどうも他とは違う感じのが混じっているように友人には思えた。
どう違うのか確かめようと二三歩近づいてみると、十羽ぐらいいるうちの二羽がカラスの黒い丸い目ではなく、白目のある人間の目を持っている。
ただし人の目よりはずっと小さい。
友人がそれを気にしているのに気づいた大和尚は「ほうお前あれらが見えるか」といって「お前の母親を拝み屋筋から嫁にもらったのは正解だったようだな。残念ながらお前の父親はまったく見る力がないから」と、そのようなことを言って数珠を出してそのカラスのいるほうに向かって短くお経を唱えると、人の目をしたカラスはぼんやりとにじむようになって消えた。
「あれは何?」と友人が聞くと「なーにたいしたものではない。人の魂などではなくちょっとした悪い気が凝ったものだよ」と教えられた。
大和尚は続けて「別にあれらが見えなくても寺の仕事に支障があるわけでもないし、立派に勤めることができる。
ただ、こういう力が途絶えてしまうのは残念だから」というような意味のことを言ったしい。
友人にはその当時は何のことかわからなかったが、友人の母親はその地域のお寺とは違う民間信仰を司る家の娘だった人で、ずいぶん無理をいってお寺に嫁に入ってもらったという。
それで俺ら一般人からみれば不思議な力が友人にも受け継がれたということのようだ。
友人にそういう力がこれまで役立ったことがあるか?と聞いたら、葬式のときに引導を渡した後に、まだ霊魂がこの世に留まっている気配というのが何となくわかるんだそうだ。
それでその後の儀式の力の入れ方を調節する。
大概は仏教でいわれる四十九日まで留まっていることは少なくて、三十日前後で気配は消える。
いわゆる成仏するということらしい。
ただ恨みを飲んで亡くなった人などは強い念が残っている。
せまい町なので亡くなる前後の事情は大体分かっているから自殺者などは特に念入りに儀式を行うことにしているという。
それから、この近辺では余程の大家でなければ遺体を寺に安置して通夜を行うんだが、この地方独特の風習として北枕にした遺体の枕元に小さい黒い屏風を立てる。
遺体は魂が抜け出した空の状態にあるので、そこを狙って悪い気が入り込んで来ることが極稀にある。
それを防ぐための黒屏風で風などで倒れないようにしっかりした台座がついている。
一度だけ強い風で屏風が倒れたのに小一時間ばかり気づかないことがあって、そのときは白布の下で閉じられていたはずの遺体の目がかっと見開かれていたそうだ。
それに気づいたのがもう僧籍に入って修行していた友人で、長い時間特別なお経を唱えるとひとりでに目が閉じて、悪い気が抜けていくのがわかったという。
友人に悪い霊が憑いた人を祓ったことがあるか?と聞くと、そういうことはないといってた。
もしそういう人が尋ねてきたとしても、気を感じることはできるかもしれないが、どこの誰の霊が憑いているかなんて絶対わからない。
自分よりずっとずっと上の能力がある人ならわかるのかもしれないといってた。
こういう力というのは修行で身につくものではなく、ほとんど生まれつき決まるんだそうで、実際に子どもの頃と比べれば今は力はずっと落ちてきてるらしい。
そういう相談を受けた場合は、宗教関係ではなく医療機関を受診するように勧めているそうだ。
なぜなら道行く人を見ても、多かれ少なかれ何かの気が取り憑いていて、それらにいちいちお経を唱えてもきりがないし、変な例えだが寄生虫が体内にいると肥満にならず健康な場合もあるように、何かが憑いていても悪いことばかり起きるわけではないと笑ってた。
それから心霊写真は大部分がただの紙だから気にすることはないといってた。
もちろん気になる人が持ってくれば寺で預かってもいいが、そもそも見間違いのような場合がほとんどだそうだ。
ただし古道具、骨董類は人間よりずっと長くこの世に存在してるものが多いので、何らかの気が凝ってることもあるらしい。
ただ特別に儀式をするまでもなく、しばらく本堂に置いておくと気は抜け、「漂白剤に浸けるようなもんだね」、といってた。
これらは全部俺が酒の席で友人から直接聞いた話だが、もしかしたら違う宗派や宗教の人には別のように見えるのかもしれないともいってた。
色眼鏡をかけるとレンズの色にものが染まって見えるように、その地域の習慣や宗派の教えに影響されるということのようだ。