這い出て行った痕跡

カテゴリー「不思議体験」

本来、このような書き方は学的に不適切なのではある。
しかし、細部はおろか全体像すら理解しかねるのであれば、できる限り彼の語った通りに記述しておくのが現状では最良の手段と信じる。

彼、患者Aは、ここ数年にわたる強度の脅迫性障害の治療のために、私のところへ来た。
明白な自覚症状は、「エヘエヘ」と含むような笑い声と、ズルズルと何かが近づいて来る物音とを主象徴とする妄想的恐怖である。
そのために、ここ数年転居と転院を数え切れないほど繰り返しているのだと言う。
それらを述べた後で、彼自ら、原因と見なしている出来事について語ってくれた。

それは、増改築を繰り返したあげく放棄された、いわゆる廃宿屋だった。
山裾を、あたかも這い登るような構えの豪勢な屋敷だそうだ。
彼がお年寄りたちから聞いた限りでは、非常に古く、おそらくは近くとも戦国時代の頃からあった建物だそうだから、あるいは元々領主の館だったのかもしれない。

そんなお屋敷宿屋も、戦後はろくに客も取らず、やがては自然廃業のような形になって、最後は当主1人だけがひっそりと住んでいたのだが(さては戦争で彼だけが生き残り気力を喪失したものか)、数年前、その当主が息を引き取ったらしき噂が誰からともなく流れた。

しかし、人嫌いな当主は近所の支援を拒み続け、またそんな広い屋敷を1人で維持できるはずもなく、既に幽霊屋敷も同然の有様だったので、噂を確かめようとする者は誰もいなかった。
そこで、いずれは役所の人が来て公有となるだろう前に、その噂の確認の意味も込めて、Aとその友人BおよびCが、夕方にこっそり入ってみよう、ということになったのである。

なぜ夕方かと言うと、まあ若気の至りという奴でいわゆる肝試しをしたかったことと、後当主が健在なら、その頃に入れば、いずれ点く明かりでそれが分かるだろう、と考えたとのことである。

3人はBの運転する自動車で門の前まで行き、そこからこっそりと忍び込んだ。
ところがどうした拍子か、複雑な作りの屋敷内を行き来するうちに、いつの間にかCの姿が見えなくなっていたという。

それまでは、もし健在なら人嫌いな当主のことだから激怒して追い出すだろうから、とできる限りこっそり静かに探検していたのだが、もう日も落ち始めたからにはそうもいかず、残る2人は大声でCの名を呼びながらさらに屋内を探し歩いた。
そうこうするうちに、非常に長い縁側の一方の端に行き当たった。
既に外は暗く、夕暮れの光でかろうじて物が見える程度なのだが、縁側は途中から雨戸が閉まっているのか、手前側はどうにか見えても奥、向こうの方は漆黒で何も見えない。

僕とBは顔を見合わせた。

何かやばい、妙な「気配」をあの漆黒の向こうに感じる。
Bも同じ思いらしく、無言でその闇を見つめたままジッと立ちすくんでいる。
・・・と一瞬、僕たちは息を止める。

闇の奥で何かが動いている!
「エヘエヘ」と白痴じみた力のない笑い声とともに、何かがズッ、ズズッと這い寄って来る!!
僕たちがギョッとする間もなく、暗く長い縁側の奥の闇から、夕暮れのほの暗い明るみの中にCが、寝そべるように這い出てくる。
満面の笑みで「エヘエヘ」と笑いながら。

僕:「何だよ、いたずらかよ」

ホッとした僕たちは苦笑いしながら愚痴った。

「こんなとこじゃ洒落になんねーって、ほら、もう帰るからとっととコッチ来いって」

Cは、相変わらずエヘエヘ笑いながらズッ、ズズッと這い寄る。
僕たちをビビらせたのがよほど嬉しかったのか、ヨダレさえ垂らす笑顔にはちょっとゾッとしたが、わざと怒った顔で僕たちはそんなCを睨みつけた。

「いい加減怒るぞ!とっとと立ってコッチ来いって」

Cは聞く耳持たずになお匍匐前進な姿勢で歩み寄る。
さすがにムッとしてツカツカ歩み寄ろうとした刹那、”それ”が見えた。

絶叫と逃走、無我夢中で気づくと僕らは既に車の側に戻っていた。
呆然と振り返ろうとする僕に、Bが運転席に飛び込みキーを回しつつ怒鳴る。

「ダメだ、早く乗れ!!あいつはもうダメだ!!警察にまかそう!!」

警察、の言葉に僕はようやく勇気付けられ、Bの言葉に従い助手席に飛び乗る。
ドアを閉める間も惜しげにBは車を急発進させた。

彼らはその足ですぐに警察へ駆け込み、その屋敷でCが行方不明になったと告げた。
警察も、もともとが屋敷の現状を確認したかったのか、即応して朝まで捜索が展開された。
その結果、当主が一室で、おそらくは老衰のため死んで布団の中で半ミイラ化していたのが発見されたのと、こちらは朝になって分かったことだが、縁側から外部へ、何かが這い出て行った痕跡が発見された。
Cの持ち物のいくつかがその縁側の突き当たりの和室で発見されたが、C自身の行方は皆目不明だった。

この後、結局何を見たのかについて、結構な時間押し問答が続き、最後にAは渋々ながらも語ってくれた。

おはぐろ。

そう、おはぐろの歯を剥き出しながら、笑顔なのか泣き顔なのか怒り顔なのか、何とも言いようのない表情の、日本髪を結った割と年配の女性。
それが、Cの両足にしがみついてたんです。
それだけでも怖いのに、その女性、頭と手と肩だけで、他がないんです。
ぺったんこの着物が、Cの背後の闇へズッと延びてるだけで。
ズッと、不意に彼は蒼ざめ震え出した。

私が声をかけようとした刹那、ズッと何かを引きずるような音が待合室の方からした。
私たちが顔を見合わせる間にも、今度は「エヘ、エヘヘ」という異様な笑い声がする。
彼はお前のせいだと言うような表情で私を睨むと、驚くほどの身軽さでヒラリと窓から逃げ出す。
呆然と見送る私の背後で、なおもズッ、ズズズッと何かが這い寄る音と、エヘエヘと不気味な笑い声が診察室のドアへと近づいて来る。
さあ、これを書き終えた今、後は振り向き、ドアをジッと見つめながら、ただ待ち続けるだけだ。

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