北海道の奥地の道は慣れていないとそれなりに怖い。
私はいつも運転は慎重に行い、速度も控えめだった。
これはとある夜中の運転中の出来事。
真夜中の山深い道で数頭のエゾシカが急に車道に飛び出し横切っていった。
本来、夜行性ではないはずのエゾシカだが、夜中でもよく見かけた。
北海道のドライバーの方はご存じかと思うが、エゾシカには反射神経の良くない個体が意外と多い。
車道に飛び出した際、そのまま突っ切ってしまえば何でもないような状況でも、車に驚き、足がすくんで固まってしまう個体が少なからずいるのだ。
私の前に飛び出したエゾシカの中にも、それがいた。
ゆっくりの運転が功を奏し、急ブレーキにより激突だけは何とか免れたが、多少の接触をした。
「ドンッ」ではなく「トン」とか「コツン」といった程度の感覚だった。
衝撃はほとんど無かったにも関わらず、そのエゾシカは横倒しになり、立ち上がってこなかった。
私も緊張で、しばし動けなかったが、なんとか呼吸を整え、平静を取り戻してエゾシカの様子を見に車外へと出た。
エゾシカは出血もなく特にケガをしているようには見えなかった。
しかし小刻みに痙攣する体と乱れた呼吸、そして獣臭さによって私は不快な緊張を強いられた。
そのまま見捨てて立ち去ってしまう事も出来なくはなさそうだったが、放置すれば別の車に轢かれるかもしれないし、その時は罪悪感が勝っていた。
エゾシカの体を揺すったり突いたりするも、シカは極度に混乱しているのか痙攣したままだ。
シカの乱れた呼吸が獣の臭いを振りまく度、私はなぜか緊張が高まり、鼓動が早まっていった。
何かの気配を感じたのか、ただ気を紛らわしたかったのかは分からない。
倒れたシカとの膠着状態のさなか、ふと周りを見渡した。
自分の車の発する光しかないので、はっきりとは見えない。
が、確実にいた。
たくさんのエゾシカ達が。
私と倒れたシカを取り囲んで、一定の距離を保ちつつも離れはしない。
鳴き声をあげるでもなく、私に威嚇するでもなく、ただただ凝視していた。
なぜ見ているんだろう?
仲間の危機の顛末を見届けようということか?
痛い位に早まった鼓動を必死にこらえつつ、倒れたシカを起こそうと悪戦苦闘しながら、頭の中で妙な空想が広がっていた。
もし私が腹を空かせたヒグマであったなら、獲物の獲得を素直に喜び、この肉に食らいついているだろう。
しかし、私はなんだ?食いもしない、興味すらないシカを叩きのめして一体何をやっているんだ?
取り囲んでいるシカ達も、もしかしてそれが知りたいのか?
私を包囲したシカ達の徹底的な凝視に晒されて、おかしくなりそうだった。
・・・重苦しい沈黙は、ふいに破られた。
倒れたシカが突如混乱から脱し、勢いよく飛び起き仲間達の方向へ走り出した。
意味ありげな沈黙と凝視を私に投げつけ、ひどく不気味に思えたシカ達も、ただのシカに戻ったように感じられ、ようやく終わったのだと思うことが出来た。
おそらくは、たいした時間は経過していなかったのだと思う。
しかし極度の緊張の中、色々な妄想・恐怖・罪悪感を自ら作り上げて、本当にぐったりしてしまった。