『ろいろい』という妖怪が居る。
現在は違う山名だが、旧くは不出山(※でずやま)と呼ばれた霧の深い山に住む妖怪だ。
山中にて「おーい」と呼ぶ声がする。
人が居るのかと思って声のする方を辿っても誰もおらず、いつの間にか知らない場所に迷い込んでいたり、足を踏み外して滑落したりする、というのが怪異の流れだ。
不出山で「おーい」という声が聞こえても決して返事をしてはならない。
後に「助けてくれ」や「誰か居るか」などと続くならそれは人だが、延々「おーい」と繰り返すのは人でないモノだからだ。
姿形は噂に無く、目撃者も居ない。
元々形を持たないモノなのか。もしくはそれを見たものは皆死んだのか。
ちなみに『ろいろい』とは方言でうろうろするという意味だ。
というわけで、見に行くことにした。
二月中旬のことだった。
早朝。
昼の弁当を用意し、水や保存食、その他こまごまとしたものをザックに詰める。
今回登る山は標高こそ低いが辺りは霧が多く、迷いやすい山として有名だ。
なので遭難しても良いように、防寒シートや手回し式の充電器など、いつもより念を入れる。
加えて、アパート隣に住むヨシに登山計画書でも渡そうかと思ったが、以前の経験から奴はあまりアテにならないことを思い出し、別の人物に伝えておくことにした。
メッセージを打ち込むのも面倒だったので、準備をしながら携帯をハンズフリーにして電話を掛ける。
『もしもし』
数コールの後、相手が出た。
彼女は八坂。
同じ大学に通う学生だ。
とりあえず、本日山に行くことを説明し、もしも連絡がつかなくなった場合対応してほしい旨を伝えた。
八坂:『危ない山なんですか』
俺:「いや、そんなに大層な山じゃない。でも万が一の場合、誰かに伝えてないとただの行方不明で終わるから」
八坂:『・・・・・・万が一というのは、どういう場合なんですか?』
俺:「霧に巻かれて道が分からなくなる。足を滑らせて谷に落ちる。急に雪が降り出して下山できなくなる。まあ、どれも滅多にあるようなことじゃない」
今回は半ば遭難するのが目的のようなものだが、さすがにそれは口に出来ない。
不出山が行方不明者を多数出している山だということも、今日は霧が出そうだということも、話さない方が良いだろう。
俺:「もし三日くらい帰らなかったら、捜索願を出してほしい」
八坂:『今日、家に戻ったら連絡ください』
釘を刺すように言われた。
俺:「分かった」
八坂:『田場さん』
俺:「ん?」
八坂:『遭難とか・・・・・・、あの、あまり、心配させないでくださいね』
俺:「はい」
通話を終えて、ほうと息を吐く。
まあとにかくこれで準備は万全だ。
ザックを背負い、カブに跨り大学近くのぼろアパートを出発する。
外は薄曇り。
吸い込む空気はひやりと冷たく、吐く息は白い。最近雪は降っていないのでまず大丈夫だろうが、さすがに積もっていたら引き返すつもりだ。
目的の山まではカブで三時間といったところ。
不出山は、かつて藩に管理されていた山で、間伐も狩猟も禁止だったそうだ。
そのため、スギヒノキの植林が多いこの辺りでは珍しく自然が同時のまま残されている。
町を出て、酷いと書いて酷道と読む道をごとごと走る。
民家や建物が少なくなるにつれ緑は深くなり、うっすら霧も出てきた。
しばらく霧の中の山道を走り、目的の登山口にたどり着いた。
『××山登山道』と書かれた立札があり、その脇にカブを停める。
荷物を背負い直し、山道に足を踏み入れる。
事前に調べたところ、山頂までのコースタイムは三時間弱といったところか。
葉の落ちた雑木林は霧のせいで見通しが悪く、さらに長らく人が入っていないのか、登山道は荒れており所々生い茂った笹が行く手を遮っていた。
さらに獣道もいくつか伸びていて、中には人の踏み痕かと思うほどはっきりしたものもあった。
ここがかなり迷いやすい山であることも頷ける。
ただ気を張っていれば、判断ミスで迷うことはないだろう。
「おーい」という呼び声につられて遭難するのは構わないが、勝手に遭難した末に聞いたというのでは、真実味が違う。
元々山岳事故において幻覚、幻聴の報告は珍しいものでもない。
多くは低体温症による精神錯乱、または自分が死に近づいているという恐怖から、在りもしないモノを見聞きする。
なので、小さな頃から趣味かライフワークとしている心霊スポット巡りにおいては、毎回最大限の注意をはらう。
まあ、たまのうっかりはあるが。
もし怪異に遭えるのであれば、幻覚幻聴では無いとはっきり言える状態で遭いたいからだ。
道中、一度だけ分かれ道に遭遇した。
谷底に降りる道と、頂上へ続く道。
脇には新しい立て札と古い立札。
古い方には【不出山山頂?】とだけあった。
行きは迷わないが、帰りのために場所を記憶にとどめておく。
山頂に向かって歩く。
歩きながら、何度か立ち止まって耳を澄ましたが、聞こえるのは風の音と鳥の声。
その時ふと、『ろいろい』は、街で飼われていたインコかオウムが野生化し山に住み着いたなれの果てなのでは、という可能性に思い至った。
山に捨てられ、覚えた言葉を繰り返しているのかもしれない。
もしくは、サンカの生き残りが物資欲しさに山奥へ誘い込んでいるのだとか。
などと、怪異の正体に思いをはせながらゆっくりと山を登る。
森林限界より低い山なので、頂上まで木々が絶えることは無い。
一度だけちゃんとした休憩を挟んで、コースタイムより少し早く山頂に着いた。
結局行きの道中で誰かに呼ばれることは無かった。
荷物を置いて、少しの間頂上をうろうろしてみる。
白い立ち枯れ木の横から覗くと、山々の合間、はるか遠くまで霧が掛かっていた。
いい景色だ。
時刻は丁度昼時、弁当の炊き込み握り飯を何個か胃袋に放り込み、もう十分ほど休憩してから帰ることにした。
足元に注意しつつ、下山を開始する。山での鉄則として、事故は上りではなく下りで起こるものだ。
怪異もそうであってほしい。
山頂からしばらく下ると、再び辺りを霧が包み込んだ。
登り始めた頃から全く晴れる様子はない。
噂によれば、『ろいろい』が出る日は大抵霧が濃いらしい。
なので、今日は絶好の怪異日和ではあるのだが・・・。
オウムの声でもいいので、何か聞こえないだろうか。
そんなことを考えていた時だった。
道中、行きにも通った分かれ道。
立ち止まり、水とカリカリ梅で小休憩をとっていると、背後で微かに音がした。
『・・・・・・い』
振り返るが誰も居ない。
聞き間違いだろうか。
『・・・・・・ーい』
いや、確かに聞こえる。
『・・・・・・おーい』
小さな、呼び声。
頭の芯が冷える感覚。
辺りを見回すが、どこから聞こえてくるのか方向が分からない。
『おーい。・・・・・・たばー』
その瞬間、首筋が粟立った。
名を呼ばれた。
『ろいろい』が人の名前を呼ぶとは聞いていない。
しかし、今はっきりと呼ばれた。
田場と。
不出山で、「おーい」という呼び声に返事をしてはならない。
ただ、この場合はどうなのか。
『・・・・・・おーい』
もし、この呼び声がそうだとしたら。
『おーい』
もしも、返事をしたら。
『もしもーし』
もしもし。
『聞こえてんのかおーい』
ザックの小ポケットの中で携帯がしゃべっていた。
どうやら、先ほどカリカリ梅を取り出そうとした時、丁度電話が掛かって来ていたらしい。
同じ場所に収納していたので、間違えて触れてしまったのだろう。
ヨシだった。
ヨシ:『お、やっと出た。何してたんだよお前』
俺:「・・・・・・いや」
声の方向が分からなかったのも、ザックの中だったのが理由か。
後ろの方から聞こえるからと、ずっとぐるぐるしていた。
話を聞くに、暇なので隣に突撃しようとしたが留守だったため電話したのだそうだ。
ヨシ:『どうせまた妙なとこ行ってんだろ』
訳知り声で、奴が言った。
面倒くさかったので、帰ったら話すと言って電話を切った。
酒を用意して待っているそうだ。
息を吐く。
期待した分、脱力もした。
再び気合を入れ直し、歩き出す。
その後は迷うことも何かの呼び声を聞くことも無く、無事登山道入り口に辿り着くことが出来た。
結局、この日も怪異と呼べるモノは何もなかった。
しかしそれはいつものことだ。
カブに跨る前。
ふと思いつき、登山道に向かって、
「おーい」と呼びかけてみた。
もちろん返事は無く、目の前には薄く霧に煙る、過去に『不出山』と呼ばれた山があるだけだった。
山を後にして、大学近くのぼろアパートに戻ったのが午後五時過ぎだった。
夕飯の用意をしながら、約束通り八坂に無事帰りついたことを電話報告していると、こちらも宣言通り隣部屋のヨシが酒を持ってやって来た。
「おーい来たぞー。・・・・・・お、真理ちゃん?」
ハンズフリーで話していたので、二人とも声で分かったようだ。
『あ、ヨシさんですか』
「そーですヨッさんです。あ、真理ちゃん、これからちょっとこいつ借りてもいい?」
『あ、いえ、あの、私のものじゃ・・・・・・』
「いい?」
『・・・・・・どうぞ』
奴がにやりと笑う。
「じゃあこいつに説教してもいい?」
『え?』
「いやーこいつこんな良い子放って妙なとこうろうろしてるからさー、今日もさー」
『あ、いえ、あの・・・・・・』
「いい?」
『・・・・・・ほどほどに』
奴が勝ち誇ったようにこちらを見やる。
「おいさっきから何黙ってんだよー」
「・・・・・・」
「おい何か言えよー」
「・・・・・・」
「おーい」
「・・・・・・」
「おーい?」
電話の向こうで八坂が笑っていた。