「○○○号室のあの人、多分もうじきここを出て行くね」
朝方、ゴミ出しのついでに井戸端会議に参加していると、主婦の一人が目配せした。
その視線の先には、ゴミ捨て場から引き上げる女性の姿があった。
あまり親しくない人だ。
気のせいか顔色が悪い。
何でわかるんです?
そう聞くと、こんな答えが返ってきた。
「この間の粗大ゴミの日にね、あそこの人、山のように鏡を出してたんだ。鏡台から洗面台のから、手鏡まで。ここに住んでる人が鏡を捨てだしたら、まず間違いなく出て行くんだよね、これまでの経験からすると」
「出て行く理由?それは聞いたことないねぇ。大方、鏡を覗き込むと何かが見えるようになったからじゃない?」
この発言を聞いて、皆が頷いていた。
あー、余所の家にも出ているんだ、アレ。
同じモノかどうかはわからないけど。
怖い目に遭っているのが自分たちだけではないとわかって、少し安心したそうだ。
あれっ?
ある晩、ふと気が付いたことを姉に話してみた。
「玄関を出たすぐ横の駐輪場があるでしょ。二つあるうちの一つだけ、ガラーンとして何も置かれていないよねぇ。前は両方とも満車だったと思うんだけど、どうしたんだろ?」
姉は呆れたように言った。
「あんた今頃何言ってンの。何も置かれてない方って、すぐ上の人が落ちた場所だよ」
・・・あ。
確かに位置的にはそうなるねー。
「いやでも事故の後、掃除が終わってからは、皆普通に駐車してたんだけどねー」
え?まさか何か出るようになったとか・・・
「日が落ちてあそこに行くとさ、大きな黒いゴミ袋が落ちているんだって。生ゴミでも入っているかのように、汚れた水が滴っているのが。ただそのゴミ袋、ズリズリとゆっくり這ってくるらしいのね。駐輪場のコンクリの上に、黒い水の線を引きながら。びっくりして固まっているとね、足元まで這って来たそれがね・・・」
「話しかけてくるんだって」
「痛いようって、震える声で。この棟の住民の間じゃ、結構話題になった話だよ。
知らないの?あんた、もっと近所付き合いしなさいな」
結局、久しぶりに姉に説教されてしまい、どうにも釈然としなかったそうだ。
部屋の雰囲気が変わってからこっち、変な冷気が部屋に感じられるようになった。
部屋を歩いていると、ある部分の空気だけ、異様に冷たい。
「部屋の換気が上手くいってないのかなぁ」
なぜか私が呼ばれ、換気口など調べさせられた。
どこにも不良な所はない。
空気もちゃんと対流している。
しかし、調べている間に感じたのだが、これは明らかにおかしかった。
換気の所為ではない。
まるで冷たい人間大の塊が、部屋のあちこちに突っ立っているという感じ。
・・・良くない。
っていうか、これはちょっと普通じゃないと思うぞ。
そう答えながら壁に工具を立て掛けた時。
パキンッ!
何か硬質の物が砕けるような音が響いた。
驚いて壁を叩いてみると、その都度パキンッと硬い音が返ってくる。
「あぁ、冷気が出ている時にね、壁とか床とか叩くと、そんな音が鳴るの。温度によって材質に変化とかあるのかしら?」
何を尤もらしいこと言ってンだよ。
今の音、絶対その類の音じゃねぇよ。
「・・・やっぱしそう?」
だから引っ越せ!それも出来るだけ早く。
入れてくれたコーヒーを飲みながら、私は何度目になるだろうか、この文句を繰り返していた。
「んー、考えとく」
彼女は困ったような顔であらぬ方を見ていた。