あれは1997年の9月の事でした。
僕は放浪癖があって、インドやインドネシア、沖縄が大好きでその時も沖縄の八重山、石垣島に滞在してました。
民宿では歓迎するしないに関わらず、半強制的に「島唄」を唄わせられてました。
いい加減嫌なんだけどあれ!
で、民宿のジジ、ババに好かれた俺は離島から帰って来たら最優先で泊めてもらえるとの確約を耳に、離島に行く事にしました。
そこは石垣からボートで三時間、波照間島です。
波照間島は噂に違わず何にもない島でした。
サトウキビ畑と空港と満点の星の島です。
最高です!しかしそこには「碑」がありました。
礎に書いてある内容は端的にいえばこんな感じでした。
「太平洋戦争の時、波照間から西表島に疎開した児童ン十人はマラリアで死にました。我々は、この島の児童の死を慈しみ、二度とこのような事のない社会を築き上げて行く事を祈り、二度と戦争のない社会を望みます」(※参考「戦争マラリア」)
波照間にいれば何の問題もなかったのに、疎開したばかりに、死ななければいけなかった子供達。
僕は暮れ行く夕日の中で感傷的に泣きました!
でもこれがいけなかった。
どうも憑かれたみたいなんです。
僕の泊まった民宿はその「碑」から直線で300メートル、一本道でした。
その夜の事です。
僕は夢を見ました。
夢の中で、その「碑」から僕の部屋迄子供がズラズラっと並んでる。
何百人です。
で、次々に僕の部屋にピヨン、ピヨン飛び込んで来るのです。
そして耳もとで分けの分からない事をくしゃくしゃと話ながら消えて行くのです。
最初は寛大だった(何故?)私もついに切れて、「うるさあぁぁぁあい!!」といって目が覚めました。
部屋を見ると、窓が少し開いてます。
でも、部屋は奮発してエアコン付きにしましたので、窓が開いてるわけがないのです。
不思議に思いながら立ち上がると、起きれない!頭が痛い!寒気がする!
もう何をするにも億劫です。
本当に何をするにも全く力が抜けてしまうのです。
全身がけだるく、力が入らない。
これは経験がないながらも、もしかして「マラリア」の症状なのでは?と思いました。
僕はふらふらになりながらも、明後日の飛行機に間に合うべく石垣に帰りました。
これは本当に全精力を傾けて石垣行きの船に乗ったといっても過言ではありません。
やっとこさ石垣に帰って、「島唄」を唄った民宿に向かいました。
離島に行く前、何時帰って来ても温かく迎えてくれると確約した民宿です。
けど、民宿のジジは僕の顔を見た瞬間、大声で言いました!
「此所には泊めさせないさぁー!」
僕がどんなにお願いしても、ガンとして泊めようとはしません。
「じーさん、俺が帰って来たら泊めてくれるっていったじゃん!」って言っても、頑に首を縦には振りません。
しかも、僕の方は全く見ず、僕の肩の後ろを見てます!
俺の後ろに何があるさぁー!!
結局、どんなにお願いしてもその民宿に泊めてもらう事は出来ませんでした。
港に近く、便利だったのですが、僕は虚脱した身体を引きずりながら、リゾートホテルに宿泊しました。(内心断られるんじゃないかとひやひやしましたよ!)
で、翌日、飛行機で東京に帰りました。
不思議なのは、那覇トランジットまでは悪寒が残ってたのに、本土上空に(鹿児島とかその辺り)に戻るとウソのように悪寒がなくなって、羽田に降り立つ頃はふつーの体でした。
以上です。