男の名は高橋。
55歳になる今年まで会社の為にがむしゃらに働いてきた。
しかし「ある日」を迎えることになる。
定年である。
最近の会社は60歳定年に移行する企業が増えてきたが、高橋の勤める会社は未だ55歳定年制を敷いていた。
今日は最後の出社日、同僚に花束とゴルフ好きの高橋の為にパターを1本を送られ、感激と感慨を胸に妻の待つ我が家に家路を急いだ。
家は郊外にある新興住宅地の一戸建て。
子供はいない。
妻・智子との生活も30年もの長い付き合いになると、言葉で確認しなくても最後の勤めから帰ってくる夫をどの様に迎えるかは、分かっていると思っていた。
しかし、家には明かり一つ灯ってはいない。
帰る時間は伝えてある。
高橋:「おかしい、絶対にヘンだ」
妙な胸騒ぎを感じた。
智子は、普段どんなに午前様になろうが必ず出迎えに来る、いたって生真面目な、シャレやユーモアをほとんど解せない女だ。
また、それは高橋にしても当然のことと思っていたし、今日みたいな特別な日は尚更だ。
急に具合でも悪くなって病院にでもいったのかな?
最初はそう思ったが、同時に別の考えもあった。
それというのも今日まで高橋にとって、仕事が全てであり家庭をかえりみる事がなかったからだ。
逆にまい進すればするほど出世が早まり、妻にとってもより安定した生活が保証されことになる。
だから感謝されこそすれ、不満に思うはずはないとタカをくくっていたのだ。
しかし、これといって家事や留守番以外特にすることのない智子が、まるで生きる目標の無い様子で過ごしている様は、鈍感な高橋にも分かっていた。
ひょっとして三下り半?それも定年のこの日に?
考えたくはなかったが呼べども呼べども姿は一向に表さない。
なんのつもりだ?
なんでよりによって定年のこの日にこんな思いをしなけりゃいけないんだ。
そう思ったとたんムラムラと怒りが込み上げてきた。
高橋:「智子!どこにいるんだ智子!いたら返事ぐらいしろ!」
シンとして反応はない。
高橋は靴を脱ぐのももどかしく、真っ先に茶の間の明かりをつけた。
テーブルの上には、宛名の無い白い封筒が置かれていた。
まさかと思っていたことが現実になった。
高橋はめまいすら覚えた。
そして恐る恐る封筒に手を伸ばした。
封筒の中の手紙にはこう書いてあった
『30年という大切な私の時間を奪われた代償に、あなたのこれからの人生を奪わせて下さい。智子』
全く理解できなかったが、言いまわしは強烈だった。
いったい誰のおかげで毎日を過ごせたと思っているんだ。
誰が日々の食いぶちを稼いできたと思っているんだ
私の時間を奪われた代償?
今までの30年は無駄だったというのか?
これからの人生を奪わせて?いなくなることで不便さを味あわせようというのか、それともまた別の意図があるのか。
そこまで考えたときふすまの後ろから声がした。
妻:「読み終わりましたか?」
高橋はビクンと体を震わせた。
高橋:「どこにいる!出て来い!こっちへ来てちゃんと説明しろ!」
妻:「出ては行けません。それに説明する必要もないでしょう」
高橋:「どういう意味だ!」
妻:「ふすまを開けてごらんなさい」
妻の指示に高橋は唾を呑み込んだ。
そしてゆっくりとふすまの前に立つと一気にそれを引き開けた。
「・・・・・!」
声もでなかった。
予想もしていなかった光景に、叫ぶことすら出来なかった。
狭い廊下を隔てて茶の間の向かいにある和式トイレのドアが開け放たれていた。
トイレそのものの照明はついてなかったが、変わりにゆらゆらとロウソクの明かりが揺らめいていた。
その明かりに照らされ、妻の智子が白装束を身にまとい宙に浮いていた。
理解するのにずいぶんと時間がかかった気がした。
よく見ると智子はトイレに椅子を持ち込んでその上に立っていた。
しかも首には天井から下がるロープが何十にも巻かれていた。
同様に足首、手首にもロープでぐるぐる巻きにしていた。
高橋:「なんということだ」
妻:「説明する必要がないと言ったのはこういう意味です」
高橋:「いったい何が不満でそんな真似をするんだ!とにかくそこからおりて冷静に話し合おう」
妻:「説得は無理です。ここから飛び降りる事に決めたのですから」
高橋:「バカなことはよせ!」
妻:「どうせ私はバカです」
「そうじゃない、そんなつもりで言ってるんじゃないんだ」
妻:「いいえ私はバカです」
妻:「バカでなかったらあなたに30年もお付き合いして人生を無駄に費やしたりするものですか」
高橋:「・・・・・」
妻:「私がここで首を吊ったらあなたの人生はおしまいですね。例え長生きなさっても妻にこういう形で死なれては寝覚めが悪い所の騒ぎではなくなるでしょう」
妻:「今まで家庭をかえりみることもなく、全てあなたの言うなりになっていた私に対してなさってきたことの仕返しに、あなたのこれからの人生を奪いたい。それだけです」
高橋:「智子・・・」
説得を受け付けないという智子をなんとか説き伏せねばと思いつつも、最悪の事態となったときどうするべきかを高橋は考えた。
全体重がかかったロープをほどくのは容易ではない。
しかし智子が首を吊ってから置き場所さえ把握もしてない包丁を探してきてトイレに引き返しても間に合わないだろう。
かといって、先にロープを切る道具を用意しようとキッチンへ行こうとすれば、即座に智子はイスを蹴ってしまう。
まさに近づくことも、離れることも出来なかった。
だが、いつまでもこうしてるわけには行かない。
仮にトイレに突き進んで智子がイスを蹴ったとしても、間髪いれずに宙に浮いた体を支えることは出来るだろう。
だが、その体を預けられた状態でロープを解くのは至難の技だ。というより不可能に近い。
しかもいつまでも支えきれるものではないし、手を離してしまえば結局は高橋が妻を殺したも同然の形になってしまう。
冗談じゃない。
だったら何もしないほうがいいのでは?
だいたい、俺をこんなに苦しめる女房を助ける必要があるのか?
いっそ智子には死んでもらって周囲の同情を買うのが正解かもしれない。
そうすれば一回ぐらい若い後妻をもらう事が出来るかもしれない。
そこまで思いを巡らせたとき。
妻:「さようなら、あなた」
妻の声に高橋はハっと我に返った。
智子の揺れが大きくなってくる。
両手両足の自由が利かない状況ではもはやバランスをとるのが不可能というギリギリのところまで揺れていた。
助けなければ、もうすぐ俺の妻が死んでしまう!
一瞬はそう思ったが、まるで金縛りにあったかのように動くことは出来なかった。
智子自身の為に救おうという気にはならなかった。
愛がない。
後先考えずに妻の体を支えるということは、結局愛がなければ出来ないことが分かった。
1時間でも2時間でもいいから必死に支えられれば、例え自分が力尽きても、そしてその結果妻が死に至ったとしても、それは最高の愛がもたらした結末なのだ。
そこまで高橋の脳は理解した。
が、行動には移れなかった。
愛がないからだ。
智子の体の揺れは限界を超えていた。
と、一瞬智子と高橋の目が合った。
お願い、あなた。少しだけでもいいから私を支えようとして・・・。
妻の目はそのように懇願していた。
高橋にはなぜかそれがハッキリと分かった。
とたんにロウソクの炎に照らされた智子の顔が般若に変わった。
妻:「デエエエエエエエーッ」
聞く者の毛を逆立てするような悲鳴が、56歳の智子の喉からほとばしった。
それを聞いた高橋の全身に鳥肌が立った。
高橋にはもうそれ以上見ることが出来なかった。
高橋は目をギュッとつぶった。
ダーンという大きな音がした。
高橋は全身をガクガクと震わせた。
ガチガチと歯が鳴った。
震えは1分、2分、3分とつづいた。
その間目はつぶったままだった。
とてもじゃないが、目の前の光景を直視することが出来ない。
妻の形相がまぶたに焼き付いて離れなかった。
逃げ出そう。
とにかくこの家から、足が動けるようになったら・・・。
五分ほど経ったころようやく震えが収まってきた。
そして目をつぶったままじりじりと後ずさりをはじめた。
と、その時である。
妻:「えへへへへ」
笑い声がした。
な・・なんだ!
その場に凍りついた。
妻:「えへへへへへへへ」
誰の笑い声かすぐには分からなかった。
妻:「えへへへへへへへへへへへへへ」
声が徐々に近づいてきた。
どう考えても智子そっくりの声をしている。
妻は首を吊ったはずだ!
そんな智子が笑えるはずがない。
しかし徐々にその声は近づいてくる
妻:「えへっ、えへへっ、えへへへへへ」
高橋の身体の硬直度は、金縛りなどという生易しいものではなかった。
全身が金属になってしまったかと思うほど、恐怖の為に筋肉が突っ張っていた。
妻:「えへ、えへ」
ついに笑い声は高橋の真ん前にきた。
そして息が顔に吹きかかる。
首を吊った智子が歩いてきた?
そんなバカな!
高橋は思い切って目を開けた。
・・・・・・!
目の前に妻の智子の顔があった。
いつのまにか手足に巻き付いていた縄をほどき自由になった両手にロウソクを持っていた。
そして・・・智子は笑いながら泣いていた。
高橋:「智子・・・おまえいったい・・・」
それ以上言葉が出なかった。
試されたのだ。
最初から死ぬつもりはなかった。
ギリギリの状況を作って夫がどのような態度に出るのかを試したのだ。
しかしあまりにも冷酷な結果を突きつけられ、智子は自分の人生が何であったのか分からなくなったに違いない。
そしてそのショックで・・・・。
妻:「えへっ、えへへへへ。おおっ、おおおおおおお」
妻:「おおおおおおおおおおお」
こんどこそ演技ではなかった。
妻:「おーおっおっおっ・・・・うおーっ!」
智子はロウソクを持った両手を高く突き上げ、天井を仰いで号泣した。
智子の号泣はほとんどケモノの咆哮のようになった。
次から次へとあふれ出る涙が、皺だらけの顔をてらてらと光らせた。
高橋は呆然自失の体でそれを見つめていた。
とうとう自分は強引に妻の元に引き戻された。
そして、もはやこの先の自分の人生はなくなったのだと・・・。