ロボトミー手術

カテゴリー「日常に潜む恐怖」

小学生の頃読んだ話なので作り話かと思い込んでたが、調べてみたら実話だった。
嫌過ぎるロボトミー(脳外科手術)の話。
以下ちと長いがコピペ。

昭和33年6月5日、坂本一仁は河口湖畔で生まれた。
銀行員だった父親は、仕事と家庭を放り出して行方がわからなくなっていた。
母岩瀬幸子(24)は一度は一仁を堕ろそうとしたが、割烹旅館で働きながら一仁を産んだ。
生後3ヶ月の頃、母は上京し、新宿のクラブに勤めた。
一仁は甲府の祖母と2人で育った。
母は学齢になったら一仁と暮らすのを夢見ていた。
母はホステスをやめ、池袋でスナックをやっていた。

昭和40年4月、一仁は上京し日之出小学校に入学した。
しかし、5月に知恵遅れとして大塚台小学校特殊学級に転校させられた。
一仁は目をパチパチするようになり、1年生の終わり頃、一仁は数秒から10数秒、瞬間的に意識をなくす発作を起こした。

昭和42年1月19日、担任教師の紹介で都立梅ヶ丘病院に通院した。
投薬を受けたが、1人で通学し、問題なく友達と遊んだ。
11月23日、全身けいれんの発作を起こした。
翌8月に2度目の発作を起こし、梅ヶ丘病院に入院した。
なじめず、1週間で退院した。
母は池袋に近い病院を希望し、東大分院精神科外来を紹介された。

分院で検査をしたが検査結果に疑問があると、東大脳外科を紹介された。

一仁は検査を嫌がった。
それで検査には全身麻酔が必要だと入院する事になった。

11月22日、一仁は入院した。
25日、脳外科の長、佐野圭司教授が大勢の弟子を連れて回診した。

佐野は一仁のカルテに『難治性てんかんでステレオ(定位脳手術)適応』と書いた。
検査の前日、1回の回診で検査入院をしたはずの一仁がロボトミー手術を受ける事になってしまった。
病院はいつまでも一仁を退院させなかった。
母はやっと一仁を退院させ、分院に通院させた。
投薬で症状は落ち着いて来た。

昭和44年11月27日、朝11時、東大脳外科からの突然の電話で一方的に入院を言われた。
母は一仁を早退させ、病院に連れて行った。

12月2日、頭蓋骨に穴を空けて脳波を調べるなどの検査を受けた。
6時間以上かかるつらい検査だった。
12月11日、一仁はロボトミーをされ、12月30日、歩く事もできず母に背負われて退院した。
発作も続いていた。

昭和45年1月3日、朝から何度も発作を起こした。
母は病院に連絡した。

1月8日の再入院を指示され入院した。
1月20日に2度目のロボトミー手術が行われた。
1度目も2度目も検査名目で手術だという事は知らされなかった。

2月7日、一仁を病院から退院させるよう連絡があった。

悪化していた・・・。

主治医は冷たかった。
一仁を捨てたのだ。

2月15日、退院。
寝たきりの一仁は1日中『ウルトラマン』と『仮面ライダー』の主題歌を聞くだけで、話す事もできなかった。
曲が終わると、一仁が母にだけわかる声でせがむ。

母は何度でもテープを再生した。
床ずれが酷かった。

一仁にはヒダントールF錠が処方された。副作用で歯肉が増殖し、口の外にはみ出した。
流動食しか食べられない。
1口ごとにむせて、まわりは嘔吐物で汚れた。
舌が喉の奥に沈み呼吸困難になった。眠っている時は顎を上げておかなければならなかった。

母は往診を依頼しが、担当医は連れて来いと取り合わなかった。
病院に行っても、担当医と会う事もできなくなった。

知り合いだった保険関係の新聞記者が顔を出してくれた。
すると、医師はすぐに出て来て往診を承諾し態度がまったく違った。

往診はおざなりだった。
手ぶらで来て、スリコギを出させ、一仁の体を叩いて見るだけだった。
貧しい母子家庭と見てか、馬鹿にしきっていた。

一仁は衰弱していった。
母は病院の対応が許せず、弁護士に会った。

昭和48年6月、母は訴訟を起こした。
昭和49年3月21日、一仁は死んだ。
18歳だった。

裁判は続いていた。

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