今回は昔ばあちゃんから聞いた話を。
1945年8月。
中立条約を破ってR国が攻めてきたとき、じいちゃんは、技師として中国で発電所を建造中だった。
召集はなかったらしい。
当の発電所は、ほぼ出来上がっていたという。
「R助の鬼が来る」
当時はその噂で持ち切りで、日本人集落は震え上がっていた。
日本軍は守ってくれるのか?
ここの住人はどうなる?
しかし関東軍は、その時にはいつの間にか引き揚げてしまっていた。
いつもは偉そうな軍人さんなんて、誰も残っていなかった。
ようやく、混乱の窮みになっているだろう開拓団総本部から指示が来た。
発電所の工事は無期限に中止。
開拓団は急ぎ、内地への引き揚げの準備をせよ。
建造途中の発電所施設ハ、軍機ユエニ敵ノ手ニ堕チルコト能ハズ。
破壊セヨ。と。
この集落に居る皆は、日本人で在るが故に、ここで作り上げた全てを捨てて、ここを引き払わなければならない。
今すぐに。
ここで頑張っても、犯されて、略奪されて、殺されるだけだ。
ここまでだ。
同僚数十人と発電所に向かう折、じいちゃんは泣き叫ぶ、まだ子供だった伯母さんと
お袋を抱えたばあちゃんに、一振りの刀を渡して、言った。
「R助の鬼が来て、酷いことをされそうになったら、これでみんな死ね」
じいちゃん達は急ぎ発電所に向かう。
まだ敵の姿は見えない。
その朝は夏なのに霧が濃く、不気味なくらい静かだったそうだ。
じいちゃん達は泣きながら、運びきれなくなった、自分で引いた設計図を全て、燃やしたという。
そして殆ど出来上がっていた施設を、殆どぶっ壊した。
埃だらけで帰ってきた時、幸運なことに、まだ「鬼」は来ていなかった。
泣き疲れた娘達を、上がり口の板敷にそのままの格好で寝かし、ばあちゃんは一人、暗がりの中で目を爛々とさせ、刀を携え、息を潜めて正座して待っていたという。
そしてそのあと家族は文字通り、鞄一つで逃げた。
夏が終わって秋が来て、瞬く間に10月にも関わらず地面が凍り始めた。
道端に生えている、痩せて凍ったニンジンは、リンゴの味がしたという。
延々と続く冷たい泥に足を取られながらも、ようやくごった返した港に出た。
中国人の人買いが寄ってくる。
ここまで来たのに、ここで力尽き、とうとう手放された子供達を狙ってる。
切符を買うために鞄の中身は殆ど無くなった。
命からがらようやく乗り込めた舞鶴行きの船は、最後から二番目だったそうだ。
じいちゃんの口から聞けたことは余りに少ない。
それ程じいちゃんは語るのを拒んでいた。
おいらは思う。
どんな恐怖の中で、どれだけの悲しみと怒りと絶望を置いてきたのだろう?
遥か、満州に。