平将門(たいらのまさかど)は、平安時代中期の武将。
935年平将門の乱が起こり、940年(天慶三年)二月に平貞盛・藤原秀郷(俵藤汰)によって追討。
将門は、飛んできた矢が額に命中し亡くなった。
その首は、平安京へ運ばれ、京都の七条河原にさらされた。
何ヶ月たっても腐らず、眼を見開き、歯ぎしりしているようだったという。
その将門の形相を見た歌人藤六左近が歌を詠むと、将門の首が笑いだし、突然地面がうごめき、稲妻の中、『我に四肢を与えよ。もう一戦せん』と叫び、夜な夜なその声が響く。
そして、ある夜、将門の首は体を求め、坂東を目指して飛んでいったという。
その首は数ヵ所に落ちたとされ、将門の首塚はいくつかあるが、もっとも有名なのが、住民は長らく怨霊に苦しめられたといわれる、東京都千代田区大手町1-2-1にある首塚。
首塚にまつわる奇妙な話が多いことでも知られる。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災により、当時、大手町にあった大蔵省庁舎は全焼。
その仮校舎の予定地に首塚も含まれ、工事により崩された。
その後、期待された早速整爾(はやみせいじ)大蔵大臣が、体調を崩し意識不明。
原因不明のまま、一ヵ月後に57歳という若さで亡くなる。
その後、矢崎管財局課長ら14人の大蔵官僚が次々と亡くなり、武内作平政務次官他、多くに怪我が続出。
首塚の祟りと恐れられ、仮庁舎を取り壊し首塚を元の場所に復元、盛大な慰霊祭を行った。
早速大臣が亡くなったのは1926年(大正15年)9月13日、そして、1928年(昭和3年)に仮庁舎を撤去し復元、その間はわずか2年。
取り壊しの期間を考えればさらに短くなる。
単純に2年としても、14人が亡くなるということは、2ヶ月に1人以上亡くなっており、限られた場所、限られたグループ内であることからも奇妙な話。
この他、1945年(昭和20年)、終戦を迎えた年、米軍のGHQが空襲による焼け跡のままだった首塚周辺に目を付け、巨大な駐車場を作ろうとする。
工事が進むにつれ、異変がまた繰り返された。
整備のため、土を掘り返すと、墓石が現われたため、ブルドーザーで掘り出そうとした途端、車体がバランスを崩し横転。
2人が死亡。
首塚まで工事を進めることが出来ず、中止せざるを得なくなった。
将門の祟りは、本当にあるのか、それとも、単なる迷信なのか。
周囲の高層ビルが建ち並ぶ中、ここだけは時代が止まったまま、静かに同じ時を刻み続けている。
これが、何を意味しているのか。
大蔵省の仮庁舎を建てる前、関東大震災で将門の首塚も崩れたため、工学博士大熊喜邦(おおくまよしくに)が、これを機に依頼され調査している。
石室は掘り出されたが、すでに盗掘されたのか、見るべきものがなかったという。