ちょうど5年前の話。
当時大学生だった俺は高校の頃に組んだバンドの活動に明け暮れ、学校にもろくに行かずライヴハウスとアパートを行き来する毎日を送っていた。
夜はほぼ毎日と言っていいほどライヴハウスでバンド仲間と共に酒をのみ、始発の電車にのってアパートに帰る。
そんで寝て、起きたら作曲やらギターの練習。
頃合いをみてまたライヴハウスに向かう。
そんな毎日だった。
通ってたライヴハウスはひとつふたつじゃなかった。
西東京のとある駅(仮に○駅とでも呼ぼうか)近郊にあるライヴハウスは全て顔馴染みで、それぞれのハコの店長やらスタッフやらと親交があった。
だからその伝でいろんなバンドと仲良くなり、ライヴ観戦に誘われたり、バンドとして企画ライヴに呼ばれたりする。
そんな訳で俺はほぼ毎日○駅を使っていたから、もう○駅周辺の地理は完璧に覚えていた。
通行人がいなければ目をつぶってでも歩ける自信があるくらいだった。
ある日、俺はバンド仲間のAと二人で朝まで○駅付近の居酒屋で酒を飲んでいた。
お互いのバンドの方向性やら、ツアーの話でかなりアツく語っていたため、飲んだ酒の量もいつもよりかなり多かったような気がする。
そろそろ店が閉まる時間になったので、勘定を済ませ、俺とAはふらついた足で駅付近のコンビニに行き立ち読みをしながら始発を待った。
Aは俺以上に酔っぱらっていたらしく、呂律もろくに回っていなかった。
そんな状態で本を読める訳もなく、立ち読みを諦めたAはイートインの椅子に座り込んだ。
30分くらいして、そろそろ始発が来る時間になった。
俺は立ち読みしていた本を買い、突っ伏して寝ているAの背中を揺すりながら声をかけた。
「そろそろ始発出るから行こうぜ」
Aは気分悪そうに目を開けると、顔をしかめた。
「ちょっと気持ちわりいから、少しここで休んでくわ。先いっててくれ」
「まじか。結構やばい?」
「いや、少し休めば平気だと思うわ」
その程度なら、別に介抱してやることもないだろうと思った俺は、Aに別れを告げて予定通り始発で帰ることにした。
多少は気にかかったが、切符を買って改札を通ったときにはもうどうでもよくなった。
○駅の始発電車は当駅始発のため、わりと早い時間から電車が止まっている。
都内とはいえ、始発電車はいつも空いている。
多いときでも一車両に5人程度。俺以外誰もいないときなんてざらだ。
今日も俺が乗った時にはその車両には誰もいなかった。
7人がけの席の一番左側に座った俺は、ケータイでSNSをチェックしながら発車を待った。
「まもなく、2番線、当駅始発の電車が発車します。扉、しまります」
発車時刻になり、駅員のアナウンスと共にドアが閉まる音が聞こえた。
今日も俺一人で車両を独占できることが少し嬉しかった。
電車がゆっくりと動き出したので、俺はもう一度車両を見渡そうと、ケータイから目を離した。
その瞬間、俺は少し驚いた。向かい側の席に男が座っていたんだ。
俺が入ってきた時には、確かに車両には誰もいなかった。
それから座ってケータイを見ている間も、人が入ってきた感じは一切しなかったのだが。
足音を殺して入ってきたのか、単に酔っ払っていた俺が気付かなかっただけか。
まあそんなこともあるかと、特に気には止めなかった。だが、気にかかるところがあった。
男は中肉中背で、年は俺とくらいだろうか。
身嗜みはしっかりしていて、黒いスーツを着ている。
何が気にかかるかというと、その男はずっと俺の顔を見ながら、黒目の大きな目を見開いてニコニコしているってこと。
それはもう、満面の笑みといった感じ。少し気味が悪かったが、俺は席を移ろうとは思わなかった。
この男とは、どこかであった気がする。
いや、会って話したことがあるという確信はないが、確かに既視感があった。
もしかしたらやはり男は俺の知り合いで、偶然電車に乗る俺を見かけて、忍び足で同じ車両に乗って俺を脅かそうとしたのかもしれない。
もしそうだとしたらそんな人を覚えていない俺は随分と薄情な人間だなと、少し罪悪感を覚えた。
とりあえず俺は、その人に対して軽く頭を下げてみることにした。
しかし、男に反応は無かった。
ニコニコしながら、俺の方を凝視したまま動かない。
まるで能面を笑わせたような、のっぺりとした感情のない笑顔のまま。
さっきより一段と気味が悪くなった。
誰だ、こいつ。
我慢できなくなった俺は立ち上がり、若干ふらつく足で後ろの車両へと向かって歩いた。
車両を繋ぐドアに手をかけ、勢いよくドアを開けた瞬間、後ろから男の声が聞こえた。
「連れてってよ」
俺はすぐに車両を移り思いきりドアを閉めた。
連れてってよ・・・??
どこにだよ・・・。
俺は今から家に帰るだけなんだよ。
瞬間、鳥肌がぶわあーーっとたった。
あいつは知り合いなんかじゃなく、ただ変質者だと思った。
隣の車両には数人乗客がいて、俺は少しほっとした。
念のためその車両の一番奥まで行き座った。
ひょっとして男がついてきてるのでは、と思って辺りを見回したが、それらしき人はいなかった。
自宅最寄り駅に電車が到着し、俺は歩いてアパートに向かった。
無事家に着いて鍵を締めると、眠気と酔いのせいかもうさっきの男のことなどどうでもよく思えた。
軽くシャワーを浴びて布団に入り、ケータイをチェックした。時刻は朝の7時半くらいになってたと思う。
今夜もまた○駅近くのライヴハウスで友達のライヴを見る予定だ。
早いところ寝ようと思い、携帯を置き目をつぶった瞬間、俺に今までに感じたことのない現象が起こった。
目を閉じた瞬間、瞼に白黒の○駅が映った。
白黒ではあるがとてもリアルな光景で、行き交う人や車の映像までとても鮮明に見える。
俗に言うフラッシュバックみたいなものなのかもしれない。
何が起きたのかわからなかった俺は少しパニックになりながら目を開けた。
いつもと変わらない家の天井が見える。
そしてまた目を瞑ると、○駅が見える。
少し怖くなった反面、落ち着いて考えてみて俺はすこしわくわくした。
言葉では説明しづらいが、この現象は明晰夢に近いなにかだと思った。
明晰夢っていうのは、簡単に言うと「夢の中でこれは夢だと自覚できる夢」のことで、結構見れる人もいるみたいだけど俺はそんな経験は一切無かった。
明晰夢ならば、このまま○駅付近を散歩してみよう。
奇妙な恐怖感に好奇心が勝った。
瞼に意識を集中させ、俺は○駅の町を歩いてみることにした。
駅付近の公園やファーストフード店付近を散策。
景色は普段俺がいく○駅と何ら変わりなくとてもリアルなだけで、俺はつまらないと感じた。
夢ならもっと面白いことがあってもいいだろ、と思った。
駅ビルに入ったら何か面白いことがあるかもしれないと思い、駅の方に戻ってみると、駅ビルの入り口は閉まっていた。
どうやらまだ開店していないようだった。
しばらく駅ビルの前でぼうっとしていると、駅を経由するサラリーマンの姿がどんどん増えていった。
駅の時計を見ると、時刻は朝の8時を指していて、俺はなるほど通りで、と納得した。
近くのコンビニに向かうと、イートインでAはまだ寝ていた。
俺はため息を着きながら、Aの肩に手をかけ、揺すって起こしてやることにした。
「おい、もう8時だぞ」
Aはうぅっと唸りながら立ち上がると、不思議そうな目で俺を見たあと、「あ、わりい」といって早足でその場から離れて駅の方へと向かっていった。
Aは自己管理能力が無いというか、ツアー先の打ち上げで財布を盗まれることも何度かあったと話していた。
盗んだやつも確かに悪いが、ここまでずぼらならこいつにも非があるなと、思わず苦笑してしまった。
そのままコンビニの中を物色したが、特に欲しいものもなかったので俺は店を出ることにした。
最初は明晰夢を楽しんでいた俺も、なんとも言い表せない漠然とした恐怖を感じ始めてきていた。
あまりにリアルすぎる。
俺が家に帰って布団に入ったのが7時半くらい。
この夢の中の時刻は8時。
コンビニでAはちゃんと寝てるし、おまけに景色には違和感が一切無い。
まるで今俺が現実の○駅にワープしてきたような感覚だ。
唯一、景色に色がついてない、いわゆるモノクロであるということだけが、これを夢だと思わせる理由だった。
恐怖心はどんどんと膨らんでいき、堪えかねた俺はとうとう目を開けた。
自宅のアパートの天井が目に映り、俺は大きく安堵の溜め息をついた。
時計を見ると、驚くことに午後6時を少し回っていた。
酒の影響もあったし、いつの間にか帰ったあとですぐに俺は深々と眠ってて、時間感覚もごちゃごちゃになってしまっていたのかもしれない。
確かに寝起きにはたっぷり寝た後のような爽快感があった。
少し落ち着いたあと、俺は自分が初めて体験した出来事に少し興奮した。
これからまた○駅付近のライヴハウスに遊びにいくし、さっきの夢はいいネタになりそうだと思った。
寝汗がすごかったので俺は軽くシャワーを浴び、そしてまた電車で○駅に向かった。
ライヴハウスに着き、知り合いと挨拶を交わしてると、ビールを飲んでるAの姿を見つけた。
そういえばAも今日来るって言っていた。
Aは俺に気づくと、俺の分のビールをバーカウンターでついでこっちに向かってきた。
「うぃー」
そのテンションの高さから見ると、どうやら二日酔いにはなっていないようだった。
ビールをもらい、軽く乾杯をした。
「いやあ、昨日は飲んだなー」
「久しぶりにアツく語ったわ」
「A、俺より飲んでたもんなー、てっきり二日酔いで今日はこれないと思ってたわ」
「いやー俺もそう思ったんだけどね。あのあとやっぱりコンビニで潰れて寝てたし」
「やっぱり?そうだと思ったわ」
二人で顔を見合わせて笑った。
「でもなんか早い段階で揺すって起こしてもらってさー、あのとき起こしてもらえなけりゃ俺は多分今日丸1日死んでたわー」
俺は一瞬で真顔になった。
「え、何時くらい?」
急に真面目なトーンになった俺にAは多少動揺したようだった。
「え?・・・あー・・・8時・・・過ぎくらいだったかな」
俺の夢とリンクしてる。
偶然か?
あの夢を見ている最中の漠然とした恐怖がまた胸に広がっていくのを感じた。
「誰に・・・?」
俺は唾をのみ込んだ。
「いや、知らない人だよ。親切な人もいるもんだよなー」
・・・なんだ。
大きな溜め息がでた。
しかし、その安堵の時間も一瞬だった。
「なんか俺らと同じ年くらいのさ・・・サラリーマンかな、スーツ姿でさ。すっごい笑顔だったから俺ちょっと引くくらいだったんだけど」
俺は即座に能面のようなのっぺりとしたあの笑顔を思い出した。
へばりつくような、ニコニコとした感情の無い顔。
始発の電車の男。
背筋が凍りついた。
わけがわからなかった。
動揺しながらも、俺はAに今朝解散してからの事を全て話した。
Aは懸命に耳を傾けてくれていた。
「思い過ごしだといいけど、確かに偶然にしちゃ出来すぎてるな・・・」
「いや、まじで怖くなってきたわ。俺どうしよう・・・今夜とかまじで寝たくないわ。なんなんだよ、訳がわからん」
「・・・こうなったら作戦はひとつだな」
Aが一人で頷いた。俺は藁にでもすがる思いでAの作戦を待った。
「今夜もまた、朝まで飲んで、そのあと俺ん家に泊まる。これでいいっしょ」
そういうとAはにやっと笑った。
こいつはバカだと思ったが、Aの物怖じしない感じと底抜けな明るさとバカさに少し救われた気がして、俺はその作戦を享受することにした。
そしてライヴが終わり店が閉まり、俺とAは予定通りまた近くの居酒屋で朝まで飲んだ。
飲んでいるうちに気が強くなった俺たちは、来るなら来やがれ!!とか叫びながらお互いの士気を高めた。
そして閉店後またコンビニで時間を潰し、始発の電車でAの家に向かった。
Aの家につき、〆のビールを飲み終え、とうとう寝るときがきた。
Aは、お前が寝付くまでは俺も寝ないよ、といってくれた。
恐る恐る目を瞑る。
まただ。また瞼にモノクロで○駅の景色が映った。
俺は恐怖に駆られすぐに瞼を開きそうになったが、どうしても確認したいことがあったのでそのまま駅へ向かって歩くことにした。
大丈夫、現実の隣にはAがいるんだ。
早歩きで駅構外にあるトイレに向かい、洗面所で鏡に映る自分を見た。
俺は恐怖のあまりその場で崩れた。
鏡に映ったのは自分ではなく、あの男だった。
そして、何よりも恐ろしかったのは、今度は目が覚めないことだった。
「覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ覚めろ・・・」
必死になってずっと自分に言い続けてると、耳元であの声が聞こえた。
いや、もしかしたら無意識に、自分でそういったのかもしれない。
「連れてきてくれたんだ」
俺はなにも考えられなくなった。
鏡の前にしゃがみこみ、しばらく動けずにいた。
どれくらい時間がたったか。
もう一度鏡をみてみる。
変わらない。
あの男が立っている。
そしていつのまにか、モノクロだった景色には、色がついていた。
夢だと思っていたものは、現実になっていた。
それから5年経っている。
Aを含め、知り合いも俺の両親も、俺の容姿が別人になっていることにすら気付いていない。
最初はAに相談したり、身近な友人に打ち明けたりもしたが、面白くないとか精神科に行けとか、そんなことを言われるだけ。
最初、俺は夢の世界に来てしまったんだと思い、現実世界への帰り方を模索していたが、最近は違うと思ってる。
きっとここは現実だ。
平行世界とかそんな話でも多分ない。
ただ、あの男の身体が俺の身体の居場所を奪ったんだと思う。
戻る方法ももう見つかる気もしない。
半ば諦めている。
「最近よく笑ってるね」とか「いつも笑顔だよね」とか、知り合いに言われるようになった。
俺はあれから5年間、一度も笑ったことがないのだが。