怨念に取り憑かれた友人

カテゴリー「怨念・呪い」

これはもう25年以上も前ですが、実際に体験した話です・・・。

もともとある場所に起因する話なのですが、当時私は高校2年から3年への春休み中で、事はそのときに起こりました。
そのある場所と言うのは大阪経済・金融の中心地、北浜・天満橋界隈。
正確にはそこを流れる大川にかかる天満橋と、堂島川、土佐堀川と中之島公園で2分される場所です。

3月のある日、友人の母親から1本の電話が。
友人の母:「斉藤(私・偽名)くん、うちの憲二(友人・偽名)と、昨日一緒じゃなかった?」

私:「昨日は一緒やないですよ」

などと、素っ気ないやりとりのようですが、彼を含め、友達数人とよくつるんでいたこともあり、そういった電話もたまにあったので、特に疑問にも感じませんでした。
ですが、一晩帰っていないということもあり、ほかの友人たちに電話で確認したところ、同様の電話が憲二の母からあったようです。
ですが私同様、誰も当日は憲二とは会ってないとのこと・・・。

結局、心配になった母親はその日の夜、地元の警察に捜索願を出し、息子の無事を祈っておりました。
ですが、翌日になって地元ではなく大阪市内の東警察署から電話があり、その内容が「2日ほど前、管轄の川で飛び込みがあったようで、その時の遺留物があるので、一度確認にきていただけないか」といったもの。

電話を受けた憲二の母としては、まさかと思いつつも、確認を行うことに。
警察で見せてもらった遺留物というのはスニーカーで、中には同様に脱いだ靴下も入っており、それは、天満橋のちょうど真ん中当たりに、キレイにそろえ脱いであったとのこと。
その際、遺書はみつかってはいないものの、状況的に飛び込んだ可能性が強いというものでした。
スニーカー自体どこにでも売っている平凡なものなのですが、確かに憲二が履いていたものにもあったため、一度帰って確認をすることに。

その時、担当の警察官からは「周辺の聞き込みも行っておりますが、目撃者については現在見つかっておらず、飛び込んだものとも、どこかへ失踪したものとも一概には申し上げられません。」との返答。

とりあえず、帰って下駄箱を探すと、同様の靴はなく、いなくなった当日に履いていた確率が非常に高くなったこともあり、状況報告を担当警察へ連絡することに。
当然母親としては、まさかとの思いもあり、飛び込んだとは考えたくはなかったのですが、電話越しに担当の方は「大変申し上げにくいのですが、ご希望がある様でしたら、万が一の場合を考え、川をさらいます」とのこと、さらに補足的に、時間がたつと発見が非常に困難になる場合があるため、早めの決断をしていただきたい。と。

翌日、心配して憲二の家を訪ねた私を含め、友人たちに憲二の母親は、ここまでの経過を話してくれました。

その帰り道、私を含めた友人の間でも、「まさか、あいつがそんなことするなんて信じられない」との、思いから「たぶん2、3日したら帰ってるで」などと、希望的観測で話をしていたりしたのです。
しかし、とうとう彼が帰ってこなくなり一週間がたち、いよいよ川をさらう作業を行うことに・・・。

その連絡を受け、憲二の家族と私含め仲のよかった友人3人で、現場にいくことになりました。

実際、現場では警察関係者および、地区の消防団の方々で、結構な人数での探索となりました。
ダイバーなどはおらず、カギの付いたロープを岸と、船から投げては引っ張るといったものでした。

皆一生懸命順々にロープを投げては引く姿を見ながら、(きっと、どこかでまだ生きてるはず)正直私たちはとても複雑な気持ちで、作業に参加しておりました。
余談ですが、作業をしていた地元消防の方に聞いた話では、ここらは身投げする人が多く、しかもなかなか遺体が見つからないそうなのです。

結局、その日は大量のゴミが引き上げられただけで、彼の存在および、それを確認できるものについては見つけることができませんでした。
反面、ほっとしたような、でももし居るのなら早く見つけてあげたい様な、何ともいえない気分でみなその日は帰ることとなりました。

その日から3日間捜索は続けられたのですが、私たちが参加したのは最初の1日目のみで、以降は、家族だけが、手伝いに行くこととなりました。
結局、捜索では結果は出ず、ひとまず打ち切りという形となり、以降は警察からの連絡を待っていてほしいと言われ引き上げることになったそうです。

捜索初日同様、私たちも家族も、(きっと、まだ生きてる)不安を希望に変え過ごすことになると思われたのですが・・・。

その夜に、不可解なことが起こりました。

家族の元へ電話がかかり、憲二の母親は直感的に憲二からだと思い受話器をとると、しばらくの沈黙の後、「見つけて・・・、お願い・・・」とだけ言うと切れてしまいました。

当然、母親としては、きっとどこかにいて、今更恥ずかしくて帰ってくることができず、さがしてくれるのを待っていると思っていた様なのですが、その電話がかかってきたのとほぼ同時刻と思われるタイミングで、私、そして友人宅にも全く同様の電話がかかってきていたのでした。

実際、私も不安はあるものの憲二の母親同様、絶対どこかに居るんだと思っておりましたが、電話のあった直後の友人や憲二宅への確認を行うことで、希望より不安、そしてその確認でほぼ同時の電話であったことに不自然な感じが否めなくなったのです。

またその憲二からと思われる電話を受けた1時間後くらいに、一緒に捜索に参加した友人の1人から、電話がかかってきたのです。

その電話の内容というのが、その友人の知り合いでとても霊感の強いおばさんがおり、普段さして連絡を取り合っているわけでもないのに電話がかかってきたようなのですが、開口一番「達彦(友人B:偽名)あんたの知り合いでこんな子いてないか?」と、失踪した友人と特徴のよく似た人物像を達彦に説明をはじめ、詳しく聞いていると、ちょうど憲二が失踪した翌日の夜中からそのおばさんの枕元に、当時の私たちくらいの年頃の男の子が立つ様になったそうです。

そのおばさん曰くは以前からもよくそういったことがあったため、特に気にとめることもなく過ごしていた様なのですが、その日以降、毎晩居ることと、日に日にその表情が険しく、そして何かを訴えたいという思いが伝わってきたそうで、とても胸騒ぎがし電話をくれたそうです。

また、その彼がとても良くない状態に向かいつつあるのだそうで、一刻も早く見つけてあげないとと伝えてきたので、私たちだけでもう一度現場の捜索(実際には捜索と言うよりも、そのおばさんがもう少し詳しいことを知りたいというのと、ある程度の場所を特定できればとの思いで)に行くことになりました。

翌日の夜、おばさん宅へ友人と一緒に向かい、そこからタクシーに乗って現場へと向かうことになりました。
そのタクシーの中で、現場についての話をしてくれました。

その場所を含め大阪市内は戦争時空襲を受け、たくさんの人が亡くなっており、おびただしい数の人たちでその川面を埋め尽くすくらいになっていたそうです。
そういった無念にも亡くなった人たちの思いや怨念がその場所には渦巻いており、話によると、そういった怨念はたくさん折り重なり一つの大きなものとなるんだそうです。

仮にそれを怨霊という言い方をするのなら、それら怨霊が個々の霊の無念を扇動し、同様の無念を現世の人間にも味合わせる(自分たちの仲間とする)ことだけが目的となり、さまようのだそうです。

その話からも憲二自身、最初から死のうという気持ちが強かったわけではないにもかかわらず、そういった怨霊に導かれたのだと説明していただきました。
なので、自分自身に悩みがあったり鬱な気持ちになっているときには間違っても、ここへは近づくな、といわれました。
また、こういう目的でくるときは、絶対もっていなさいと言って、折り紙に小分けした塩を持たせてくれて、「何かいやな感じがしたら、その塩を足下と自分にかけなさい」と、注意を受けました。

そういった話の中、現場から一本西側の、天神橋へ到着。
橋の袂でタクシーを降り、そこから現場の天満橋へと向かう予定だったのですが、タクシーを降りるなり、おばさんはそのまま天神橋を渡り始めようとしました。

私たちは何か考えが合ってのことなのかな?と思いつつ成り行きを見ていました。
しかし、それにしては異様なくらい早足で橋の中央へと向かってくため、「おばさん!どこいくの?」と慌てて声をかけながら近づいたのですが、いっこうに返事はなく、少し不安に感じ肩に手をかけ引き留めようとしたのです。

ところが「離せ!」と、さっきのおばさんではない、とても野太い男性の様な声で一蹴され、ものすごい力で肩にかけた手をふりほどかれました。

これはやばいと思い、あわてて後ろから羽交い締めにし、抱き止めようとしたのですが、「”$#%&’(←人の名前の様だったが聞き取れなかった)が待ってる!!離せ!」と、抱きついた私をものともせず、引きずったままどんどんと橋の中央へと向かっているのを、ようやく3人がかり止めることができました。

しかし、あいかわらず不可解な名前を叫びながら歩みを止めようとはしませんでした。
私たちはパニックになりながら、おばさんを正気に戻そうと必死に声をかけたり、背中を叩いたり、さっきの塩をおばさんにかけ(もう、投げつけるくらいの勢いで)たりしておりました。

しばらくの間続けていると、弱々しい声で「もう、だいじょうぶ」と、返答が帰ってきたので、我々も手を止め、しばらくおばさんの様子をうかがっていました。

「おおきに、あんたらが必死で止めてくれんかったら、私も憲二君の二の舞やったわ」と、話したのを聞き、皆青ざめてしまいました。

それほど、ここにいる怨霊は強い力を持っており、本来心に隙がある場合に入ってこられる様なのですが、霊感の強い人というのは、どうもその霊感の強さが諸刃の剣となるようで、精神状態如何によらず、非常に接触しやすいとのこと。(それだけに、十分気を張っていないと通常の人より、危険なのだそうだ)

さらに事情を聞いてみると、どうやら我々が来たことと、その目的がわかったらしく、また憲二を見つけさせたくないなのだと、おばさんは説明してくれました。

まさにタクシーの中で話してくれた怨霊たちが、邪魔をしているのだそうで、先日の捜索時などにも影響していたのだそうです。

さすがに、こんなことがあったので今日はあきらめて帰るのかなとも思ったのですが、おばさん曰く憲二がこのままでは同様に怨霊の仲間になってしまうとのことで、せめて場所だけでも特定したいと、続行することになり、その場でおのおのが塩を振り、残りを手に握りしめながら、そのまま天神橋の中央から、中之島公園へと、向かうことにしました。

おばさん曰く、まだ場所は特定できないが、どうも公園より下流にいる気がするとのこと。(この公園はホームレスの方たちも多く、余りよい噂もないので気味の良いところではないのです。)
みなで公園へと降りる階段を下っていきました。
そこから東側は公園の突端となっており、そちらへはいかず、そのまま橋の下をくぐり西南側の川縁へと出ようとしたのですが、その時におばさんが小声で「早くくぐり」と言われ、みなそそくさと橋の下を抜けようとしたとき、橋脚の方から「ふふふっ」と、くぐもった笑い声が聞こえてきました。

皆も聞こえた様で、背中に冷や汗をかきながら小走りに橋を抜けきると、今度は明らかに私たちに向かって

「帰れ!」と、冷静に叫ばれました。(口調は冷静ですが、とても大きな声で)

みなびくっとしながら声のする方をみると、全身黒ずくめ?(暗くてあまりよく見えてない)の老人が、立っていたので、てっきり、ホームレスだと思い込み、友人共々、少し安心したのですが、振り返ると同時に、皆にかぶさるようにしておばさんが「あれは死神やからもう見たらあかん」といわれ、続けざま「あれと、目おうてないやろな?」と、言われました。
皆、口を揃え、「おうてない、おうてない」といい、少しそこから離れました。

あれも、先ほどの怨霊のひとつだそうで、あそこに居る人たちで心に隙のある人を見つけては仲間にするためにあそこにいるのだそうです。

続けざまにそういった事が起こったこともあり、おばさんとしても我々のことが気がかりだったらしく、「もう、今日はやめとこ、改めて私だけで見に来るわ」と、結局捜索は断念し、
そのまま公園を西へ進み難波橋から公園を後にし、行き同様タクシーを拾っておばさんの家へと向かいました。

その帰りのタクシーの中で、同行した友人の中の一人に「あんた、さっきの死神の目みたやろ」と、言われその友人が少し後ろめたげに「うん」と、うなずきました。
「やっぱり」と、おばさん。

その場を離れた私たちには感じなかったのですが、おばさんにははっきりとその死神がその友人にかなり強い興味を抱いているのを感じたそうで、切り上げる決断をしたんだそうです。

おばさんの家に着くと、先の友人に「あんた、上着脱いでみ。」といわれ、皆それまで気づいて居なかったのですが、脱いだ上着の左肩部分にぼんやりとですが、単なる汚れとは言い難い、黒い手形がついておりました。

「見てみ、これでわかったやろ」と、あんたは二度とあそこには近づいたらあかんよ。
と、強く念押しされました。

「上着もお祓いしとくから、おいとき」と言われおいていくことに。
それから友人共々、しっかりとおばさんにお祓いをしていただき、その日は帰ることになりました。

体験談としてはここまでなのですが、後日談として・・・。

その後、おばさんから経過の連絡もこず、状況も変わらないまま一ヶ月が過ぎようとしていました。

そして憲二が失踪して約1ヶ月のちに、捜索した現場からそれほど離れていない、道頓堀川(中之島公園の突端から下流へ100mほどのところから南へと分岐)で、遺体が見つかりました。

ほっとした様な、とても残念な気持ちでようやく供養をしてあげることとなりました。

そのことをおばさんに報告すべく、友人の達彦が電話をかけたのですが、一向に電話に出る様子はなく、おかしく思い、達彦は両親におばさんと連絡が取れないと相談したところ、両親がそのおばさんの姉に連絡を取ってくれることに。

すると、あの日以来、入院しているとのこと。
原因については、詳しいことはわかっておらず、連絡のつかないおばさんの姉が家を訪ねたとき異変に気づき、救急車で入院することになったそうです。

その話を聞き慌てた私たちも、おばさんの見舞いに行ったのですが、入院時からずっと昏睡状態で話もできない状態でした。
そして、翌日には息を引き取ったらしく、その連絡だけを達彦から彼の両親を通し聞きました。
死因やその他詳しいことについては、ほとんど伺えておりませんでした。

以上が話のすべてです。

おばさんの死とあの出来事に因果があるのかどうかは、我々ではわかりません。
が、もしおばさんがいなければ、我々自身が同じ目にあったのかもという、恐怖だけは感じました。

後記として

当時の不可解な点として、飛び込んだときの状況は、お昼過ぎまで雨が降っていて多少河川が増水していたが、流された先には公園の突端があり、上がることも十分可能ではなかったのか?

また、飛び込んだ際および、その直前・直後に至る目撃証言は一切なく、残された靴のみが、発見されたこと。(橋を徒歩で渡る人はあまり多くないと思われるが、交通量は多く、たくさんの車が通行しているので、多少の目撃証言はない方がおかしいと、警察の担当者も話していた。)

最後に、彼らの仲間になる前に解放されたのか否かについては知るよしもありませんが、友人たちとしっかり供養させていただいたので、安らかに成仏していると思っております。
おばさんも安らかにお眠りください。

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