俺が子供の頃体験した話。
俺が物心ついた頃から、うちの庭にはよく、女の子が入ってきた。
歳は10歳ぐらいで、ニコニコと笑って俺の遊び相手になってくれた。
両親が共働きだったから、一人で留守番することも(短時間だが)多く、そんなときはいつもその子と遊んでいた。
女の子は両親には見えないらしく、「おねーちゃんと遊んでる」なんて母親に言っても「どこにいるの?」って返事ばかり。
でもそんなのは子供にとってはどうでもいい事だったのだろう。
俺はあまり気にせず、そういうもんなんだと当時は思っていた。
女の子は決まって、庭の一本の木の近くで遊んでくれた。
木登りしてみせてくれたり、虫を捕まえたり。
木陰で一緒に昼寝したりもした。
近所にあまり同世代の子供がいなかったせいもあり、歳は離れていたがとても良い友達のような関係だった。
だが、小学校に入り、社会性が芽生えてくると、「周りと違う」という気持ちが出始めた。
女の子とはあまり遊ばなくなり、たまに遊んだときも「ねえ、なんでほかの人には見えないの?」としつこく女の子に聞いたりした。
そんなときは決まって、女の子は「ごめんね」と困ったような笑顔で木の陰に隠れてしまい、それっきり消えてしまうのが常だった。
でも、たまには無性に女の子と遊びたくなり、追いかけっこしたり地面に棒で絵を書いたりして無邪気に遊ぶこともあった。
友達というよりは、兄弟に近い関係だったのかもしれない。
そんな日々を過ごし、2年生になる直前の3月、俺は一家で引っ越すことになった。
父親の転勤が急遽決まったということで、慌しく引越しの準備をした。
女の子は、それを寂しそうに眺めていた。
俺も女の子と別れるのがつらく、準備を手伝うことでそれを紛らわそうとしていたが、こらえきれずとうとう泣き出してしまった。
普段、仕事でいつも遅くまで帰ってこない父親も、当然引越しの準備をしていたが、俺の泣いている様子を見て優しく声をかけてきた。
「○○、寂しいかもしれないけど、あっちの家は広くて、新しくてきっと楽しいぞ」
違う、そんなんじゃない、と俺は更に泣いた。
あそこにいる子と会えなくなるのが嫌なんだ、あの木のところにいる女の子だよ、と。
父親の動きが一瞬止まって、木のところをゆっくりと見た。
そして、父親の目から涙がつーっと垂れてきた。
お前、ずっと居たのか。
そうか、その木、お前の木だもんな。
父親がそういうと、女の子はニコニコ笑って答えた。
そうだよ、パパが植えてくれたんだよ。
私の記念樹。
そう言うと、女の子の身体がすぅっと浮き上がり始めた。
母親も呆気にとられてその様子を見ている。
父親は女の子に叫んだ。
ずっと○○を見ててくれたんだな。
ありがとう。
ごめんな、気づいてやれなくて。
女の子はニッコリと微笑んで、空に浮かんで、消えた。
俺はなぜかその時、『ああもう、この子とは二度と会えないんだな』と思った。
だけど不思議と悲しくはなく、人生で初めての「切ない」という気持ちになった。
後で聞いた話だが、父親と母親は再婚して、俺が生まれた。
父親は初婚が早かった。
いわゆるデキ婚だ。
生まれた娘は10歳のとき、交通事故で死んでしまった。
娘を失って大きな喪失感を味わった父親と前の奥さんは、それが原因で離婚していた。
女の子とよく遊んだあの木は、娘が生まれたときに父親が植えた記念樹だった。
そういえば、女の子と遊んでいるとき、女の子はよく言った。
これ、私の木なんだよ、と。
引っ越したあとも、記念樹は新しい住人によって大切に育てられている。
今でもたまに立ち寄ると、当時のことを思い出して、懐かしさと切なさがこみあげてくる。