四国八十八箇所を逆に回る「逆打ち」をやると死者が蘇る。
映画「死国」の影響で逆打ちをそういう禁忌的なものとらえている人も多いのではなかろうか?
観光化が進み、今はもうほとんど見ないようだが、真っ白い死装束のような巡礼服を着て順打ち(八十八箇所を普通に回ること)をしている姿はまるで死での旅のように不気味で(実際行き倒れも多かったらしい)、確かにその逆をやれば死者の一人二人生き返ってもおかしくないような雰囲気があり、また地元の老人方も「逆打ちをしている」と言うといい顔をせず「やめたほうがいい」
「罰当たりだ」と苦言を呈してくることがあったそうだ。
さらに「打つ」という表現をするように、八十八箇所回りは参拝した寺に木の札を釘で打ちつける、というのが本来の作法で(現在では木の札を打ち付けることは禁止されており、専ら紙の札を納めるだけである)、その打ち付けるという行為が「呪いの藁人形」などを連想させ、なんともおぞましい感じがする。
主観交じりの些細なことだったかもしれないが「八十八箇所回り、とりわけ逆打ちにはオカルト的な何かがある!」と、若い俺達に思い込ませるには十分すぎた。
俺は当時一緒に心霊スポット荒らし(心霊スポットでバカ騒ぎしたりカップル冷やかしたり)をしていた、のっぽのYと茶髪のAという友人二人を連れて「四国八十八箇所逆打ちの旅」をやることにした。
大学三年の夏休み、俺達は有り余る若さと体力と時間に任せて自転車で四国に渡った。
「車じゃ味気ない、徒歩は無理っぽい、じゃあ自転車だろう」という考えだったのだが、今にして思えば真夏に自転車で四国一周というのも大分無理があったのではないだろうか。
何にせよ、俺達三人はK県S市(※香川県さぬき市)にある八十八番目の寺(逆打ち開始地点※大窪寺)の前に立ち、旨いうどんを食いテンションMAXだった。
暑い日差しにも負けず、パンクにも負けず、夜の薮蚊にも負けず、俺達はひたすら寺を回った。
数日が経ち二十数ヶ所の寺を回り終え、俺達は蜜柑ワールドE県(※愛媛県)に突入した。
「せっかく蜜柑の国に来たのだから」と商店でみかん買い、何番目かの寺で休んでいたときだ。
「あのおばちゃん前の寺でも見なかったか?」
Yがみかんの皮を剥きながら尋ねてきた。
「どのおばちゃん?」
「ほらあれ」
私の問いかけに、Yがその人物を指差す。
その先にはボロボロに薄汚れた格好で(ひどい言い方かもしれないが)大きな鞄を持った中年女性がいた。
「いや、気のせいじゃないか?俺は見た覚えないぞ」
「マジで?見た気がするんだけどなぁ」
「つーか逆打ちなんて物好きなことしねーだろ普通」(逆打ちコースだと、同じ巡礼者に二度会うことはまずない)
「そうだよなぁ、でも見た気がするんだよなぁ」
Yは気にかかるようだったがその話はそこで終わり、後は「みかんうめぇ」
「この辛さなら巡礼者も行き倒れるわな」などと言い合っていた。
それから更に何日かかけて、E県の寺もほぼ回りつくした。
(もうすぐE県の寺も回り終える。
名残惜しいがみかんともポンジュースともお別れだ)
そんなことを考えながら、B寺(※仏木寺か)という四十数番目の寺で一夜を明かそうとしていた時だ。
時刻はもう午前0時近く、連日の疲れがあるはずなのに何故か眠れない。
Yも同じようで、仕方なく二人でのんびりと星を眺めていた(Aは爆睡)
どのくらいそうしていたかはわからない。
星を眺めるのにも飽き、無理にでも寝るか、と何気なく寺の入り口のほうに目をやった時、俺は思わず息を飲んだ。
誰かいる――寺の入り口に確かに人影が立っており、寺の中に入ってきている。
正確な時間はわからないが、恐らくもう午前0時を過ぎていただろう。
参拝するにはあまりにも遅すぎる。
普通じゃない。
さらに、その人影がはっきりと見える近さになって、俺は更に顔を強張らせた。
ボロボロの服に大きな鞄――それは紛れも無く俺達がE県に入ったばかりの寺で見た、あの中年女性だった。
百歩譲って、その中年女性も俺達と同じく逆打ちをしているのだとしても、この状況は普通では考えられない。
俺達は自転車、向こうは徒歩なのだ。
いくら俺達が四国の地理に疎いと言っても、さすがに普通なら徒歩に追いつかれることはないだろう。
そう、普通なら・・・。
まさか、夜通し歩いているとでも言うのだろうか?
「あのおばちゃん、この前見たおばちゃんだよな?」
Yも中年女性に気付いたようで、私に話し掛けてきた。
「あぁ・・・多分、同じだと思う」
俺は自分を落ち着けるために大きく呼吸し、途切れ途切れに言葉を発した。
「何でこんな時間に参拝するんだ?」
Yが尋ねてくる。
どうやらYは追いつかれたことについては疑問を持っていないようだ。
「知るか・・・それよりあれヤバイんじゃないか?」
逃げ出したい気持ちを抑え、俺はYに返す。
「そうか?別に変な感じはしないし、生きた人間だと思うぞ」
Yは特に恐れている様子もなく、そう答える。
確かに、今まで霊体験をするときに例外無く感じていた違和感のようなものは全く感じない。
しかしそれにしたって妙だ。
こんな時間に女性が一人で参拝など、やはり普通じゃない。
そう俺が言うと「それじゃ話し掛けてみるか。理由がわかればスッキリするんだろ?」と立ち上がり、おもむろにその中年女性に近づいていった。
全く、こいつは何故こうも無鉄砲なのだろう、と思うのだが、結局私もYを一人で行かせるわけにはいかない、という気持ちと、この女性が何者なのか知りたい、という好奇心に負けYの後に続いた。
「すいませーん、ちょっといいですかー」と、Yが大声で中年女性に話し掛ける。
「はぁ、なんでしょう?」
突然二人組みの男に話しかけられたにも関わらず、警戒したように鞄だけは大事そうに抱きかかえたが、女性は少しも動揺したような素振りは見せずどこか夢うつつのような声で応答した。
「こんな場所で何してるんですか?」
Yが尋ねる。
「その、あまり褒められたものではないんですが、八十八箇所を逆に回っているんです」
中年女性はそう答える。
やはり俺達と同じく逆打ちをしていたようだ。
「どうしてまたこんな時間に?」
「急いでおりますので・・・」
「体に悪いですよ、こんなに遅くまで」
「私は大丈夫です・・・」
「僕等も同じことをやっていて、随分前に自転車で追い抜いたんですが追いつかれてしまいましたね」
「この道に慣れていますから・・・」
その他にもいくつかの質問をしたが、回答はすべて短く簡潔なものだった。
だがそれでも、俺の抱いていたほとんどの疑問は氷解していった。
こんな時間にいるのは事情があって急いでいるせいで、俺達が追いつかれたのは、やはり俺達が道に慣れていないせいだ。
俺は大体納得し(事情というのは俺達と違い休みの期間が短いとか、そういうことだろう。
このおばさんも恐らくオカルト好きの酔狂な人で、興味本位で逆打ちをしているんだな)などと勝手に思い込んでいた。
質問が終わると、中年女性は本堂のほうへ歩いていった。
「大したことなかったろ?」と、女性を見送りながらYが言う。
「そうだな、一人でビビった俺がバカみたいだ」
笑いながら俺はそれに答えた。
「それじゃもう寝ようぜ、いい加減にしないと明日に差し支えるし」
Yに促され、俺達は寝袋に入ろうとした。
だが――カツー・・・ンカツー・・・ン本堂の方から音が聞こえてくる。
まるで釘を打つような音が。
「おい」
本堂のほうを睨みながら俺はYに声をかける。
「あぁ」
Yは頷き、俺達は本堂の方に走って行った。
俺達が本堂の前についたときは既に音は止んでおり、中年女性が槌のようなものを持って佇んでいた。
そしてその視線の先には、禁じられている木の札が打ち付けられていた。
(おいおい、いくらオカルト好きでも禁止行為はやっちゃダメだろ)
その時の俺はまだその程度にしか思っていなかった。
中年女性は、まるで俺達などそこにいないかのように俺の脇をすり抜けて行った。
すれ違う一瞬、俺は確かに聞いた。
「もう少しだから、もう少し、今度は・・・」と、中年女性がぶつぶつと独り言を言っているのを。
そこで俺は、あることに気付いた。
あの女性が着ているボロボロの服、あれは八十八箇所回りの巡礼者が着るという巡礼服だ。
今までそのことに気付かなかったのは、真っ白であるはずの巡礼服がどろどろに汚れており、また、本来背中に書いてあるはずの文字も擦り切れていて見えなくなっていたからだ。
そして俺はそのことに気付いた直後にある想像が浮かんだ。
あまりにも悲しく、おそろしい想像・・・。
この女性は本気で誰かを生き返らせようとしているのではないだろうか――そして、逆打ちをするのは恐らくこれが始めてではない――「道に慣れている」という発言、あまりにもぼろぼろの巡礼服、そして先程の独り言・・・。
彼女は今まで何回、何十回と逆打ちを繰り返しているのではないだろうかそしてこれから先も、願いがかなうまで何度でも――そして大事そうに抱えていたあの鞄、あの鞄の中には・・・。
全ては俺の勝手な想像に過ぎない。
しかしこんな想像をしてしまったからには、もう逆打ちを続ける気力など残っているはずもなかった。
俺はYに自分の想像したことを話し、逆打ちの旅を中止することにした。
次の日すぐに俺達は四国を出たのだが、爆睡していたAだけはとんでもなく不満そうだった。
この話を後日、四国出身の知人に話したところ「嘘だろ?映画(死国)の前までは逆打ちで死者が蘇るなんて聞いたこと無かったし」とのことだった。
その知人は「そんな新しすぎる噂に執着するやつはいない」と言っていたのだろう。
だが、噂の新旧はあまり関係ないと俺は思う。
どんなに新しかろうと、どんなに嘘臭かろうと、絶望の淵にあるときに差し出されれば簡単に信じ込んでしまうのではないだろうか。
もしかすると、あの中年女性は今もまだ――