数十万人殺せば英雄

ルーマニアの首都ブカレストから北西に80キロ行ったところにトルゴビシテという小さな町がある。
その中央に城跡があり、今では一面芝生に覆われているがこの古城こそ19世紀に書かれた「吸血鬼ドラキュラ」のモデルにされ、血を見ることが何よりも好きだった猟奇的な君主、ブラド3世の居城である。
その残虐の限りを尽くして綴られた呪われた過去とは一体どのようなものであったのだろうか?

通称串刺し公として知られるブラド3世は1431年2月、トランシルバニアの古い城塞都市に生まれた。
彼の父ブラド2世はハンガリー王国からイスラムと戦うという意味の「ドラクルの騎士」の称号を送られた上に所領を与えられた。

ハンガリーは彼に必要な援助を約束して現在のルーマニアであるワラキア公国の君主として承認することで、押し寄せるイスラムの脅威からの防波堤という役割を彼に荷なわせたのである。

しかしワラキア公としてトルゴビシテに首都を構えたブラド2世は、たちまち隣接するオスマントルコ帝国の重圧に直面することになった。

オスマン帝国は彼にワラキアの公位を認める見返りとして多額の貢納金を要求してきた。
断れば圧倒的な軍事力で一気に粉砕されることは明らかであった。
こうしてワラキアはトルコとの間に屈辱的とも言える隷属関係に組み入れられてしまった。

この結果、ワラキア公国はイスラムの防波堤になるどころか、皮肉にもバルカン侵攻を図るオスマン軍の先鋒を務めることになってしまうのである。

しかもブラド2世の忠誠に疑問を抱いたオスマン帝国は、彼の息子を人質に取る事を要求してきた。
当時13才だったブラド3世は人質として、トルコの首都に留め置かれることになった。
以後5年間、ブラド3世は不安な人質の日々を過ごす事になるのである。

一方トルコ側に寝返ったと思い込んだハンガリー王国は激怒した。
ワラキアにトルコ戦への参加を迫って来たのである。

ブラド2世はトルコで人質になっている我が息子を気づかいながらも義務を遂行したが、ブラドに反感を持つ貴族たちによって長男もろとも捕らえられた。

そして沼地のほとりにある修道院で惨殺されてしまった。
兄の方は鎖に繋がれて連行され、自分の墓穴を掘らされた上に生きたまま埋葬されたのである。
そこでオスマン帝国は空位となったワラキアの君主の座に人質として捕らえられていたブラド3世を推すことになった。

トルコ側としては人質期間の5年にわたるトルコの教育により、ブラド3世がトルコにとって好都合で従順な君主になることを期待していたのである。
言わばトルコの傀儡政権の切り札としての任務を与えられていた。

しかしワラキアの新君主になったブラド3世は、結果的にはトルコを裏切りハンガリー側に走ってしまう。
彼は心の底ではトルコを憎んでいた。

彼が5年間の人質期間に最も影響を受けたのは皮肉にも政治面ではなく、トルコの伝統でもあった串刺しの刑であった。
ワラキアの君主に返り咲いたブラド3世は、この串刺しの刑をあたかも自分の専売特許のように行い、おびただしい数の人間を殺し、残虐の限りを尽くして恐怖の絶対君主となっていくのである。

1456年、首都トルゴビシテに乗り込み、ワラキアの権力を掌握したブラド3世は、9年前に殺された父と兄の供養をした。

彼はまず兄が葬られたという共同墓地を発掘した。
掘り起こされた遺体は苦悶の形相凄まじく、首を背中に捻じ曲げた姿勢になっていた。

これは兄が生きたまま埋められ、のたうちまわった挙句に窒息死したことを物語っていた。
ブラドは兄の遺体を改葬して盛大に葬儀を行ったが、すでに頭の中は復讐心に満ちていた。
まもなく彼はワラキア中の貴族を城に召集した。

会食が終わって、ブラドは彼らにこれまでに何人もの君主に仕えて来たかと質問した。
ある者は5人と答え、ある者は12人と答えた。
30人、50人と答えた者もいた。

貴族たちは25才の新しい君主がどういう意味でこんなことを質問するのか意図が分からず、戸惑いの表情を見せた。
しかし、ブラドの方は知っていた。
この中に父と兄を惨殺した裏切り者がいると言うことを。

まもなく彼の目配せのもと一定数以上の君主に仕えたと言った貴族が部下によって捕らえられた。
その数は500人ほどだった。

彼らはただちに生きたまま串刺しにされた。
先を尖らせた杭は、すでに何百本も用意されていたのだ。
そして貴族達はある者は胸から、ある者は肛門から、脇腹からと生きたまま内臓を貫かれて虐殺された。

何百本の杭は城の外に立てられ、死体は野鳥が啄ばむままにされ、何ヶ月も死体の原形が分からなくなっても放置され続けた。

ここに至り、ワラキア中の貴族はこの新しい君主ブラド3世がどれほど残虐で戦慄すべき人間かを理解し、恐怖一色に染まっていくのである。

もはや彼らはこの新しい君主に絶対服従を誓うか、さもなければ土地を捨ててどこかに逃げ去るかのいずれかを選択しなければならなくなった。

敵対する貴族を一掃して彼の本格的な治世が始まった。
それは恐怖を根底とする絶対的なものであった。
彼は人々が常に勤勉に働き、盗みや不正を行わず妻は夫に常に貞淑であることを求めた。
そしてそれに少しでも違反した場合には厳格で情け容赦のない処罰が用意されていたのである。

ある時は勤勉な夫にみすぼらしい衣類を着せていた妻が両手を切り落とされて串刺しとなった。
貞操を守らなかった女は性器を切り取られたり、乳房を切り取られた上、全身の皮を剥がれて棒杭にくくりつけられ町の中央に晒された。
このような彼の異常とも言える正義感は領土内に恐ろしいほどの厳粛な治安を作り出した。
あらゆる窃盗、虚言、不義などが露見した場合、その犯人には恐ろしい刑罰が加えられたのである。

ブラドの残虐行為の記録は数多く残されている。
1460年、聖バルテルミーの早朝に彼は自分に敵対する異母弟の根拠地だった村を急襲した。
その際集まっていた男女全てが捕らえられ、剣で切り刻まれるか、ことごとく串刺しにされてしまった。
村は全て焼き払われ、3万人以上が殺されたと言われている。

バルガライ地方に侵攻した時はキリスト教徒を含むあらゆる人々2万5千人以上を虐殺した。
その殺し方も実に惨たらしいもので、生きながら串刺しにしたり、焼き殺したり、茹で殺したり、生皮を剥ぐなどして殺し尽くした。

目撃者の一人は串刺しにされた死者の列がまるで森のように林立するこの世の地獄絵図に全身総毛立つ思いだと感想を残している。

彼はまた、身の毛のよだつ恐ろしい処刑方法を考案した。
例えば母親と幼児を共に串刺しにしてみたり、母親の乳房の片方を抉り落とし、幼児の頭をそこに押し込んだ上で串刺しにしたこともある。
大きな鍋を作らせ、その上に穴を開けた板を渡して捕虜の頭を突き出した形で釜茹でにしたこともあった。

釜茹でにされた捕虜は熱せられるにつれ、あまりの熱さに顔は醜くボールのように赤く膨れ上がっていった。
やがて沸き返る熱湯の中で絶叫を上げてのたうち回り、最後には悶絶死するのである。

彼はその過程をまるで喜劇でも観るように愉快そうに食事をしながら、時には杯を傾けながら楽しんだ。

彼の最も好んだ事は、串刺しにされた犠牲者が林立する中に食卓を置いて祝宴を開くことだった。
そしてカ二バリズムを盛んに行った。

ある地主貴族を処刑した時にはその死体を煮込んで料理を作った。
そして殺した貴族の友人を多数招待してその料理をふるまったのである。

何も知らない彼らはその料理を食べさせられた挙句に串刺しにされて殺された。
盗みを働いた犯人を捕らえたことがあったが、犯人を釜ゆでの刑にして殺し、それをジプシー達に食べさせたこともある。

ブラド3世はオスマン側から公位承認の代償でもある貢納金を支払おうとせず、あらゆる要請にも応じることはなかった。
それどころかしばしばトルコ軍の前線基地を襲撃しては略奪などの挑発行為を繰り返していたのである。

時に1462年6月、十数万という圧倒的な大軍を擁してオスマン帝国皇帝メフメト2世はワラキアの首都目指して進撃を開始した。
それに比べてワラキア公国では緊急に徴集した農民兵まで入れても3万に満たぬ兵力だった。
ローマ教皇から巨額の軍資金を受領してワラキア公国に援軍を送る手はずになっていたハンガリー、モルドバ、トランシルバニアなどの国々は再三の要請にも関わらず援軍を送ろうとはしなかった。

どの国も領土拡張闘争の最中でワラキアのことは眼中になかったのである。
孤立無援のワラキア公国は単独でこのオスマンの大軍と戦わねばならなくなった。

そこでブラド3世は少数の兵力で夜襲を決行し、一挙に戦局の逆転を図ろうとした。
まともに戦って勝てる相手ではなかったのである。

狙うのはメフメトただ1人に決め、全員一丸となって集中攻撃を敢行することにしたのである。
そのため部下にあらかじめメフメトの幕舎の見取り図を頭にたたき込ませ、闇の中でも自由に行動できるようにした。

作戦は決行され、予想通り暗闇の中での凄まじい白兵戦となった。
しかしメフメトは強力な親衛隊に何重にも取り囲まれており、なかなか近づくことすら出来ない。

そうこうしているうちに夜が明け始めた。
少数の侵入軍が敵の大軍にその姿をさらすことにもなればもはや全滅は避けられない。
ブラドはやむなく全部隊に撤退命令を出した。

素早く兵をまとめたブラドは首都には戻らずそのままトランシルバニアの山岳地帯目指してとん走していった。

メフメトを討ち取ることはできなかったものの、オスマン側の損害は大きかった。
だが数日後にはオスマン軍は再び進撃を開始した。

ワラキアの首都を目指して進撃してきたトルコ軍はそこで異様な森に出くわした。
遠くのうっすらと霞のかかる地平線上に姿を現したそれは、森のようにも見え、先端だけに枝葉がひっついているだけの枯れ木の集団のように思われたが、近づくにつれてそれは兵士たちを恐怖の坩堝に叩き込んだ。

枯れ木と見えたのは立てられた杭であり、枝葉と思われたのはその上に串刺しにされたトルコ軍の捕虜の死体だったのだ。

死体はかなりの日数が経過していると見られ、半ば白骨化して首や手足のもげた状態で腐乱して原形を留めているものは少なかった。
頭上には何千という禿鷲やカラスがバタバタと無気味な音をたてて群がっていた。
初夏の咽せ返るような湿気と混じり合って吐き気を催すものすごい悪臭がそこら中に漂っていた。

この串刺し死体の群れは2万以上もあると見られ、遥か彼方まで延々と切れ目なく続いていた。

この地獄のような光景に進撃してきた兵士の多くが取り乱した。
ある者はうずくまって激しく嘔吐し、ある者は跪いて泣き叫んだ。
これら串刺しにされたトルコ兵達は4ヶ月前にブラドの率いるワラキアの奇襲に合って捕虜になった2万4千名の成れの果てだった。

ワラキアの首都トルゴビシテに辿り着いたトルコ軍だったが、首都はすでに焦土戦術により至る所から黒煙が立ち込めていた。

城門は開け放たれており、財宝らしきものはすでに運び去られていた。
市内には誰一人おらず、家畜の姿もなく、おまけに井戸と言う井戸には毒物が投入されていたのである。

先日のワラキア軍の凄まじい夜襲の恐怖も覚めやらない中、何万という捕虜を一人残さず串刺しにしてしまうブラドの変質的とも言える凶悪で残忍な行いを見せつけられたオスマン軍の兵士たちは、すっかり戦意を失ってしまっていた。

その上、市内で黒死病が発生したというデマも手伝い、メフメトは急遽全軍をまとめて撤退することにした。

これ以後、トルコ人たちはブラド3世のことを串刺し王と呼び極端に恐れるようになったという。

僅かな兵力でオスマン帝国の大軍を撤退させたワラキア公国のブラド3世は西ヨーロッパを救った君主として絶賛されることになった。

もしもワラキア公国がオスマン帝国の侵入を許すことになれば、西ヨーロッパのローマ教会などキリスト教国全体が深刻な危機に陥っていたであろう。

こうしてオスマン帝国の侵攻を食い止めたブラドだったが、首都のトルゴビシテは焦土戦術により廃虚同然になってしまい、トランシルバニアに落ち延びた後、再びワラキアに戻ってこられるのは12年もたってからであった。

そして帰国後、一ヶ月も経たない内に暗殺されてしまう運命にあった。
彼はその生涯で実に十万人以上の人間を串刺しにして殺したと言われている。

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