※このお話には「彼女を自殺で失った(前編)」があります。
何もない。
バンパーやボディ、ヘッドライトのレンズにも傷ひとつなかった。
歩行者を轢いたと思われる左前輪も点検した。
それから後輪も。
ふたたび、前に戻ってもう一度車の下を見た。
やはり何もない。
私はヘッドライトの灯りに照らされながら、車の前にしゃがみ込んだまましばし考えた。
あらゆる可能性を考慮しても結論は出てこない。
ふと車のルーフを見上げたが、想像したようなものは何もなかった。
私は考えがまとまらぬまま立ち上がり、車の中の彼女を見た。
彼女の顔は蒼ざめ、唇が小刻みに震えているのが見て取れた。
私は何もないというふうに顔を左右に振り、それから彼女の不安を取り除くために笑顔を作ろうとボンネットに両手をついたその時だった。
彼女の顔が凍りついた。
私には助手席に座る彼女の姿が見えていたが、彼女には私のほかに別の何かが見えていた。
私は悟った。
私の背後に何者かが立っていることを。
これから先には、後日彼女が語った話と多分に私の想像が含まれていることを考慮願いたい。
彼女が自殺したとき、私が警察官の聴取に対して彼女は弱い人ではなかったと答えたのには相応の理由がある。
あのとき彼女の決断と勇敢な行動とどちらかひとつでも欠けていたなら、私がいまこうしてこの文章を書いていることもなかったのかもしれない。
私は幼い頃から霊的な存在や異形の物どもをひどく恐れていた性質で、図書館からそういった類の物語を借りてきては、眠れぬ夜を幾度となく過ごしてきた。
9歳のころ手脚から血を吸う吸血鬼の紹介文を読んだときには、真夏でも頭から足の先まですっぽりと布団に包まって眠っていたものだ。
スポーツは大好きで、学生時代にはそれなりの成績を修め、この年になった今でも人並み以上の自信はあるが、ある特定の存在に対する恐怖心が拭われることはない。
私があのとき全身で感じた恐れは、まさにその手のものであった。
窮地に立ったときの人間の行動というものは大方の予想さえも覆し、後に振り返ってみるとそれが事実であったかどうかさえ危うくする。
それ故に余計な疑念が生じ、想像を働かせざるを得なくなるのだ。
今でも不思議に思うのだが、あのとき助手席に座った彼女の顔が凍りついていく様を、私はたとえば自然の神秘を捉えたスローモーションの映像でも見るかのように食い入るように見つめていた。
美しいとさえ感じた。
そしてすぐさま、巨大な諦めと絶望の念に囚われた。
やれやれ。
どうにもならない・・・。
信じられないかもしれないが、事実だ。
私は全身が泡立つのを覚え、振り返った。
この高速道路を走っているあいだに私たちが何度も見かけた水色の縞のワンピースを着たあの歩行者が、たったいま私が1トンの鉄の塊で踏み潰したと思われるあの女が、私のまさに目の前に立っていた。
女の動きと私の反応はほぼ同時だった。
女の顔が口元のあたりから真一文字に裂け、上半分が仰け反るように後方に倒れた。
一面が真っ赤で、その中に舌のようなものが蠢いていた。
私は咄嗟に両腕を顔の前で交差し、目を固く閉じた。
両腕に生臭い息吹を感じた。
ひんやりとした、ざらついた感触が右腕を這った。
それから、彼女の叫び声が聞こえた。
私は彼女に引き立てられるようにして車に乗り込み、彼女の運転で帰路についた。
先ほどまでひとつとして見つけられなかった標識は、いつもの場所にいつものように幾つもあって、迷うことはなかった。
運転をしているあいだの彼女の横顔は血の気を失い、ハンドルを掴む腕は小刻みに震え続けた。
私が聞いた彼女の叫び声は、「早く!」だった。
私が腕を交差して身構えたとき、彼女は既に車から飛び出し、私のそばに駆け寄ろうとしていた。
その時の私は「逃げなければ」という発想は微塵もなく、ただ彼女にされるがまま助手席に押し込まれ、彼女が運転席に乗り込む様子をぼんやりと眺めていた。
彼女の話によれば、彼女は車を30メートルほど後退させ、それからアクセルを踏み込み女の脇を走り抜けた。
女は何かを掴もうとするかのように両腕を突き出し、走り抜ける車に向かってきたそうだ。
しかし走り過ぎたあと彼女が見たバックミラーに、その女の姿は映らなかったと言う。
帰宅した後、私の腕の痣に最初に気付いたのは、彼女のほうだった。5×3cmほどの赤紫色の痣で、私が記憶する限りその時まで私の腕にそのような痣はなかった。
同時に、先ほどの出来事の最中にちょうどその痣のあたりに何かが触れたことも鮮明に覚えていた。
私は、この痣はあの女の顔が開いたときに見えた舌のようなもので舐められた痕だと考えた。
彼女は、あの女が私に圧し掛かるようにして顔を近づけた様子を克明に覚えており、私が噛み付かれるのではないかと思ったそうだ。
彼女は死ぬ間際まで私の腕にできた忌々しい痣をひどく気にしていた。
食事を共にしている時やふたりして居間で本を読んでいるときなどに、ふと気付くと彼女がじっと私の腕を見つめていることがあった。
翌日から、私たちはテレビのニュースと新聞をしらみつぶしに当たった。
もし本当に人身事故を起こしたのであれば、既に私たちは逃げてしまっている。
恐怖よりも後ろめたさに支配され、幾日かは激しい罵り合いと深く沈み込む時を繰り返した。
それらしいニュースはどこにも見当らず、一週間後、私たちは意を決して最寄の警察を訪ねた。
私たちの自宅の所在地と私たちが当日訪れた遊園地とを結ぶ高速道路が端から端まで点検された。周辺の病院への確認も、当然ながら真っ先に行われた。
彼女の車も綿密に調べられた。
しかし、何も出てこなかった。
私たちが走行したはずの、オレンジ色の外灯に昼間のように明るく照らし出された高速道路自体が、とうとう警察にも見つけられなかった。
結論として、警察が私たちの話をどのように受け止め、どう処理したのかはわからない。
数日後に警察から報告を受けたとき、私たちには謂れのない恐怖心と後味の悪さだけが残った。
高速道路での出来事があって以来、彼女とは何度も話をし、時には互いを傷つけ合うこともしたが、私は彼女を愛していたし、彼女もまた私を愛し続けてくれた。
私も彼女も早く忘れようと努めていたし、気にかけてくれた警察官にも同様のことを言われた。
彼女が自宅で転んで顔に大怪我を負った際にも、ふたりの会話の中でこの事故と高速道路での出来事とが結びつくことはなかった。
彼女は少しずつ元気になっているはずだった。
彼女が何の素振りも見せず、なぜあのようなかたちで発作的に死を選ばなければならなかったのか、今となっては知る術もない。
彼女の葬儀には、高速道路の探索で世話になった警察官が何人か弔問に訪れたが、その中の女性警察官は深い同情心からか旧知の知人を失ったかのように泣いた。
私も女性警察官と同様に泣きたかったが、棺の中の彼女を見たときふたたび恐怖心が湧き上がり、かつてない自責の念に囚われ、その場から逃げ出してしまいたいほどであった。
彼女が死んだその夜、彼女はベッドの中から両手を差し出し、まるで痣を消そうとでもするかのようにしきりに私の右腕をさすっていた。
私は「心配しなくていい。いつかは消えるから」と言って彼女を諌めたが、彼女は微笑むばかりで自らの手を止めようとしなかった。
それから彼女は眠りに落ち、悠長な私は彼女をひとり残して病室をあとにした。
彼女を衝き動かしたものが何であったのか、知りたいとは思わない。
それでも、私は思う。
もしかすると彼女の死は彼女が望んだ死ではなかったのではないか、と。
棺の中の彼女の顔は下半分が白い布で覆われ、左目のふちから縫合された傷跡が白い布の下へと消えていた。
頭部はいびつに変形し、美しかった髪の毛のかわりに不似合いなかつらが取り付けてあった。
左目には義眼が入っていた。
身体の前で重ねられた両手には、いくつものかすり傷があった。
転落した際にできたものだろう。
私の隣りに立った弔問客が一輪の花を彼女の手元に手向けた。
その時、既に彼女の身体の上にあった花がはずみでこぼれ落ち、彼女の右袖がほんの少しめくれ上がった。
私は彼女の青白い右腕に釘付けとなり、他の弔問客に急かされるまで身動きが取れなくなっていた。
私は彼女の棺のそばで自分の喪服の右腕を捲った。
痣は跡形もなく消えていた。
私と彼女に如何なる理由からあのような災難が降りかかったのか、またそれは私と彼女をどこへ導こうとしたのか、今もわからない。
彼女は何を知り何を悟り、どのような気持ちで死んでいったのか、それさえも私にはわからない。
ただ彼女の墓前に立つと、葬儀のときにさえこぼれなかった涙が、今でも静かに溢れてくるのだ。
そのたびに、私の妻は言う。
「あなたが死んだら、あなたは彼女の元へ行ってあげてください。彼女が受けた痛みや苦しみを考えれば、私はひとりでも平気です」と。
終わりです。
長々と失礼いたしました。